記憶できるということは、
過去を悼むことができるということ。
未来を生きている自分を信じるということ。
痛みを超えて生きていく誰かに、ギフトを残すということ。
でも
生より死に近いところで生きながら、自分の癒し手を自分自身が引き受けなければならなくなった時、それでも、未来に賭けることができるか。
彼岸への焦がれを仕舞いきれぬ人に、行き交う人間は何ができるのか。
また改めて、問い直した時間。
目の前の山や河を超えながら、
仕舞いながら、抱きながら、
歩みを続けるより他はないのでしょうけれども・・・
いやはや、泣きました