【安定化】と【アプローチ】

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セラピーやセラピストが【働きかける】質は議論されても、【安定化】についての議論はほとんど聞かない気がします。

でも、安定化の無いトラウマセラピーは、シャヴァーサナの無いヨガや、自宅での練習をしない英会話のようなものではないでしょうか?

私が身体指向のセラピーを学び始めたのは13年前ですが、日を追ってトラウマの影響を減らしていくには【安定化】と【アプローチ】の両方が要るはずだと実感するようになりました。

そしてこの安定化を、受け手もセラピストも軽く考えがちな気がします。アプローチに重きを置きすぎて前のめりというか。

【アプローチ】の前にも只中にも後にも、必ず【安定化】は必要なはずですし、ペンデュレーションもそれの一形態のように見えます。そして日常でも【安定化】は不可欠で、成長や回復や定着を促すはずなのです。

ただ、それらは明確な線引きがしづらいことも確かではあり、混同されがちです。

でも勿論、トラウマへのアプローチは専門家だけの領分です。いかに他者を安定化させることに長けていたとしても、トラウマはトレーニングを積まずに扱って良い代物ではありません。そしてトラウマの専門家は常に、提供するセッションの質を問い続けなければならないこともまた、間違いないでしょう。

一方で、安定化は自分でもできるようになるし、ある程度自分で自分を安定化できるようにならなければセラピーは進みづらいのではないでしょうか。加えて、(事前にトラウマインフォームドケアの知識は要りますが)友人や同僚や家族にも、安定化ならばサポートできるようになるはずなんです。

見逃せないことは、【アプローチ】と【安定化】を貴賎のジャッジメントで眺めると、アプローチの専門家は安定化にも長けているように映る、ということです。でも、個人的な体感としてこの2つは同じ直線の上に並ぶのではないように思いますし、そうである以上、「大は小を兼ねる」ようには行きません。

森林浴、美味しい食事、映画、音楽、入浴、読書、おしゃべり、ガーデニング、瞑想、動物と触れ合うこと、身体を動かすこと、ボディーワークを受けること、セルフタッチ、、、etc

そうした行為を通して神経系を鍛え、安定化できるようになることは、アプローチと同じ位に大事なはずです。

『不要不急の行為は真に不要不急なのか、何をもって必須と言えるのか。』

この3年でそのことに考え至らなかった方はいないでしょう。

過度な労働が人間性とは無関係に精神を蝕むように、私たちのSOMAは、有意味性のみで価値判断をするようになった時、否応なしに軋むものなのではないでしょうか。

(マインドフルネスやピアカウンセリングについても、この混同ゆえに暴力的になったり外部から誹りを受けたりしているように思えます。そのことについては何年も考え続けているので、そのうち現時点の考えをまとめてみようと思っています。)

日がな一日ずっとトラウマ反応にまみれていたところから、ほんの数分、ほんの数秒でも、離れられるようになること。自分の力や意図や選択やサポートによってリセットをかけること。そうした1回1回の安定化は例え小さな一歩でも、その全てがセラピューティックな意味を持つと私は信じています。

セラピストが【安定化】と【アプローチ】のどちらを専門としていているのか。今この瞬間、クライアントさんが【安定化】と【アプローチ】のどちらを必要としているのか。ここを明確にできれば、領分や針路を履き違えたアクシデントも、いくらか減らせるのではないでしょうか。

トラウマセラピーは多方面での協同作業です。「セラピストに全て任せて、週一回のセッション以外は何もしない」としたら、回復の歩みは鈍いでしょう。これまで通りのやり方で頑張り続けては本末転倒ですが、他者にできるのはサポートだけで、最終的に人を回復させるのは当人の治癒力のはずです。

そして、トラウマセラピーはあらゆる次元の統合(過去と現在、心と身体、脳の垂直間や水平間、他者と自己、など)が目指されるものです。ですから、あらゆるレベル・あらゆるジャンルにおいて神経系が耕されていくことで統合的な回復過程はより豊かになり、軌道に乗るのだと思うのです。

受け手にしろセラピストにしろ、【アプローチ】に偏重してしまう時、自分をかつて苦しめた社会の構造に与しているように思えてなりません。

安定化を軽んじ、互いの存在を交感する関係性を軽んじ、セッションをギフトの交換としてしか見られなくなったら、それは研鑽を積んできた自分への冒涜になってしまうのではないでしょうか。

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