「さわる」と「ふれる」

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昨日は「さわる」と「ふれる」をテーマにしたタッチケアフォーラムに参加しました。ご登壇された先生方がインスパイアされたのは、伊藤亜紗先生のご著書「手の倫理」でした。

亜紗先生は、そりゃもう博識でらっしゃるし筆力だって素晴らしいのだけど、私がそれ以上に尊敬するのはその“拾う力”です。ふだん素通りしてしまう日常の一コマや、市井の人が発した言葉を拾って、味わって、言語化する、そのお力がとてつもないと感じるのです。

ふだん亜紗先生は障害をお持ちの方にインタビューをされているのですが、受け取ったその言葉を削ったり膨らませたり歪めたり盛ったり、絶対にされません。無数に投げかけられた素朴な直線のような一本一本の縦糸を、丹念に残らず拾い上げて横糸をかけていくような筆致に、私は読むだけで癒されます。

良いものを書こう、なんていう暑苦しさは、そこにはありません。なんというか、目の前の事物やインタビュイーと相互にもたれかかりあいながら織り出された、ひとつの景色を眺めるような気分になります。その織り上がった絵は、糸の束や集合体の意味をはるかに超えているのです。

昨日テーマになった「さわる」と「ふれる」についても同様で、道端の小石みたいに当たり前にそばにあるものを拾って「ねぇ、なんで?」と問いかけられたような感じがしました。身近でありながら輪郭も色合いも朧なものを拾って味わってテキスト化していくと、パタパタとオセロがひっくり返るように自分自身の見え方が変わる・・・ その体験は、私がからだと出会った時のそれと似ている気がします。

昨日のお話の中で亜紗先生は

「さわる、は伝達モード。ふれる、は生成モード。」「安心への欲求は際限がない、安心は管理。それに対して、不確実性を自覚しながら冒険が許された時に信頼は生まれる。」「(タッチは)信頼関係の下にこそ存在しうるものでありつつ、コントロールしきれるものではない。暴力性を持つものであることに気づきつつ、その暴力性をも仲間にしながら。」「信頼は感染するもの。計算ではない熱。何かをしないことによって生まれるもの。」とおっしゃっていました。もう~トキメきません?!信頼関係を築き、暴力性を自戒しながら「ふれる」ように生成された言葉だからこそ、私はそれに「ふれた」だけで癒されるのでしょう。

あまりに熱くなりすぎたので、今夜はこのへんにします・・・。

写真は狂言の土蜘蛛。人から発せられる糸を想像してたら、このイメージに行き着いたので。

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