「話せばわかる」という幻

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「私たちは話せばわかりあえるものだ」という前提で、社会のルールも価値観もできている気がする。

だから私たちは、話ができることを、わかりあえることを、期待する。期待しては、叶わず落胆したり、怒って罰してみたりする。

全受容や態度の永久不変をもって【わかる】と意味づけるならば、私たちは決してわかりあえない存在同士だ、と言えると思う。

話が通じる相手と、通じる分野についてだけ、共通言語でもって話すのは、結果のところ一人語りと同義だ。うまくないプロパガンダが発された途端に空に融けてしまうのも、似たような理由かもしれない。

実のところ、私たちの間には溝があり、声が届くことさえ奇跡だったりする。そしてもし話ができたところで、私たちの前に横たわる溝は埋まらない。その前提に立たなければセラピーの着地点を見誤る。

撒いた種に手をかけると時に芽が出たり花が咲いたりするように、隔たりに橋が架かって声が響きあう瞬間が訪れることがある。その稀な響きが生まれたのは、話したからでもわかったからでもなく、その瞬間まで互いの時間と手間が積み上がった結果なのであって、ちょうどいい水と光を与え続けなければ、一瞬後には枯れてしまうかもしれない。

声が届くことや溝が埋まることを所属だとみなしてしまったら、際立つのは孤独の方だ。混ざり合おうとすればするほど、生まれるのは権力勾配だ。

わかりあえず、隔たるままに、時折響きあう声に感謝し、耳を傾けられるか。隔たる相手に、どれだけ心を尽くして声を紡げるか。

孤独の中のその手間でしか、つながりなど成立しないのではないかと思う。

【わかってほしい】の渇望が【どうやってもわからないのだから、わかりあえない我々を許し、わからないところから始める】に変わる時にだけ、過去の【わかってもらえなかった】傷が薄くなるような気がする。

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