オキシトシンと愛と分断

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こんなnoteを読んだので、再びオキシトシンに絡めて書いてみる。

オキシトシンは、ある種のドラッグを摂取した際にも際立って多く分泌されるらしい。おそらくオキシトシンには「多幸感」と共に「やみつき」にさせる効果もあるのだろう。


そして、オキシトシンは博愛とは対照的に「自国第一主義」で、身内にだけ愛を向けさせる。それゆえ戦時下ではオキシトシンが大量分泌されたりもするけれど、育ちの影響で受容体が変質すればその振る舞い自体がかなり変わってくるとも言われる(スーカーターの論文を参照)。先日は攻撃者を忌避する作用すら見出された。

オキシトシンのその篩い分けの様子は、言ってみれば“言語”みたいなものかも知れない。たとえば“緑色”という言葉の意義は、緑が何かを決めること以上に、それ以外を振り落とすところにある。人間の脳はパッケージが好きだ。差分検出器にとっては、曖昧さはエマージェンシーに近いから。


翻って。思惑や意識の外で、オキシトシンが愛の姿を纏いながら、身内が誰かを決めるのではなく、排除する対象が誰かを決めているのだとしたら、とても不気味だ。一方で、生き物の性質─どんな手段を使ってでも生きのびる─を考えれば至極当然の摂理なのかも知れない。


幸い人間には理性や知性というものがあって、自分にとっての身内をどこまででも拡大解釈できる。理知的な人ならばそこに活路を見出すことだろう。さりながら、人間は人間である前に哺乳類であって、一個体で生き抜けるだけの力を持たない。群れに所属できない事態は死と同義だ。


ゆえに、所属するためならば人間はいくらでも自分を歪め、【他】を排斥する。所属できない人間には強い羞恥心が惹起され、否が応でもそれを拭わねば明日はない。人類にとっての羞恥心は、所属を勝ち取って生き抜くための、防衛的で強烈な反応なのだから。


(いじめや無視が強いトラウマを残すのには、そういう背景もあるだろう。蔑ろにされた屈辱を、人間の心身は忘れない。そして、雪辱への焦がれは時に破滅的とも言えるような強い反応を引き起こすことがある。)


そうして死守した所属感は、【身内】の矮小化を招く。労して手に入れた身分を、そう易々と他人には分けられないものだ。しかも、オキシトシンの多幸感は決してそれを手放せないほどの魅力を放つことだろう。強く結びついた愛すべき個体が他の誰かを自分と同等に愛することなど、許せるはずもない。時にその強烈な愛と排斥は、一個人を超えてコミュニティにまで拡大するのだろう。


際立って暴力的であったり閉鎖的であったりするコミュニティが、それでもなお受け皿として機能し続けられてしまうのは、成員の心許ない所属感を購っているからでもあるのだろう。快の増幅と不快の減衰、その両方をもって忍び寄る誘惑こそが、人を最も大きく惹きつけ、逃さないのだから。


オキシトシンは絆のホルモンと言われる。一方で、多様性への理解の広がりと閉塞感や格差が並列する時代にあって、オキシトシンは分断のホルモンとしても機能しているのではないかと、私は穿って見てしまう。

オキシトシン云々というよりも、何かを愛する行為そのものが、何かを愛さない排斥と表裏一体なのかも知れないのだけれど。

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