不登校の様子を、「家にいたいんだな」「自分の意思で選んだんだな」「ゲームをやりたいんだな」と決め打ちしてかかるととんでもない方向にずれていく。
不登校のきっかけは、例えば、どこにも身の置き所がない緊張感の中を生きてきて、ある日その糸がぷっつりと切れてしまったとか。起き上がることも難しいくらいに疲労感が強いとか。家族が病気だったりして家を空けるのが心配でしかたないとか。特に何があったわけでもないけど、とにかく学校には足が向かないとか。事情はそれぞれに違っている。
そういう個々の事情を無視して同じベルトの上に並べようとするなら、まるきり学校と同じだ。学校に行くことがままならず、「学校とは違う」場所も「学校よりマシ」な場所もないなら、子どもたちはどこに行けばいいんだろう。
支援は支配とは違う。正解もないし時間もかかる。支援者が抱えきれなかった葛藤の原因を子どもたちに見出すなど、決して許されない。
もしもその子どもの神経系がダメージを受けていたりトラウマがあったりするならば、【のっぴきならない事情を抱えて、やむにやまれず、不登校の状態に身を置くしかなくなってしまっている】可能性だってある。その切迫した内情に思い至れないのなら、「他人を頼らず、大人を信じず、二度と弱さを見せずに生きていく」と決意した子どもたちの未来を、保証できるわけもない。
誰であっても、先が見通せない中を生きるのは不安で、力を奪われる。それが子どもなら尚更だ。高い負荷を感じた時に他人が信頼できなければ、人間はモノに頼る。縮こまり、害から遠のく。大人であれ、そのメカニズムを意思で制御するのは難しい。
人間は、意思と努力で生きることが難しくなったら、モノに頼って自分を治療しながら、魂を殺して服従するしかなくなる。そんな、生きることそのものがすでに生命を脅かしているような人を前にしたのなら、支援者は、まずは肉体と魂が息絶えぬように荷物を分け持たせてもらって、一緒に悩んだり考えたり、ねぎらったり待ったりエールを送ったり祈ったりするくらいしか、できないんじゃなかろうか。
(今夜見たネットニュースへの怒りの表明なので、リンクは貼りません。)