専門家であるということ

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「『わかる』のが専門家ではなく、むしろ『わからない』のが専門家」

岩田先生のご指摘はとても重要です。https://dot.asahi.com/dot/2022033000011.html?page=2

これは臨床心理の世界でも全く同じではないでしょうか。クライアントとして見てきた日本の支援者は、「専門性を極めて一人で奮闘すること」と、「いかなる立場であっても支援を諦めない」こととのバランスが危ういと感じてきました。今日は、そのバランスがどれほど難しいことなのか承知の上で、書きます。

ある精神科医が「ポリヴェーガル理論は海のものとも山のものともわからない。日本で専門家と言われている人物が脳科学者でも神経生理学者でもないことがそれを象徴している。普通なら生物学系の研究者でしかありえないのではないか。」とおっしゃっていたことがありました。

心身の【媒介】変数としての自律神経について述べてこられた津田先生がこのように評される皮肉な事態こそが、日本の臨床心理の世界を象徴しているように感じました。(ポリヴェーガル理論について議論が起きること自体は当然ですし、ありがたいことです。)

翻って、少し前のセミナーで私の尊敬する二人の医師が対談してらした時、A医師がB医師について「私はB先生をとても尊敬している、なぜなら、B先生はご自身を無力化してらっしゃるからだ」とおっしゃっていて、頭がもげそうになる位に首肯したことがありました。一流であるということは、ご自身の無力さと限界に敏感であるということなのでしょう。

誰かが行き詰まりを感じる時、問題は多岐にわたるのが普通です。特定の何かにだけフォーカスしても改善は見込めないし、逆に言えば、本質に響くならばどの問題から手をつけても構わないはずです。心からでも身体からでも家族関係からでもコミュニケーションスキルからでも食事からでも生活習慣からでも仕事内容からでも住環境からでも、何から始めたって良いと思うのです。

私自身、セラピストのリファーにずいぶん助けられてきました。日本で「リファーする」と言ったらほぼ「or」の意味でしか捉えられませんが、あるべき姿は「&」ではないでしょうか。どれほどの天才カウンセラーであっても、身体的・物理的な限界がありますし、専門とする領域があるわけですから。

時として、一緒に泣いてくれる友達や背中をさすってくれる家族の掌が、【専門家】を超えることがあります。美しい音楽や、髪を梳いてくれる優しさや、肩を抱いてくれる力強さや、家族が握ってくれたおむすびが、専門家に劣るわけがありません。

特定のモダリティが優れていることを喧伝するのに、他のリソースやモダリティの価値を貶める資格など誰にもありません。支援者の、何か【だけ】、誰か【だけ】で解決しようとする姿は、トラウマの渦に呑まれて孤立するクライアントの苦悶を彷彿させます。

セッションを通してギフトを与えよう・貰おうとする限り、トラウマの罠からは抜けられません。支援の質だけではなく量をも共に考え、支援者自身が支援を受けながら様々な人と協調していくことこそが大切なのだと私は思います。そして、ギフトの交換の無い平穏に耐えられる力をつけることが、支援者にとってもクライアントにとっても欠かせないのではないでしょうか。

支援者が、自分は専門家ではないからと尻込みをしてしまうことも、専門としていないことを受け売りでアウトプットしてしまうことも、自分の腹に落ちぬまま強迫的にトレーニングに明け暮れることも、自分はやりきった専門家なのだと全てを背負うことも、力の及ばぬ事例に蓋をして無視することも、その全てが、クライアントの回復を妨げているように思えてなりません。

自分の限界に忠実である限り、誰もが、そのままで、唯一無二の掛け替えのない支援者です。その境界を踏み越える時、誰もが、支援者とは名ばかりの加害者となるのではないでしょうか。北風の冷たさでもなく、太陽の大きなあたたかさでもなく、星の光のような瞬きで照らしあえる世界であってほしいと願います。

以下に津田真人先生の新著から引いて、今日は終えようと思います。(ポリヴェーガル理論への誘い、本編の最終章より)

〜理論が実践を導くのではなく、むしろ実践が理論を導くのです。理論が持つ綻びを、実践はたえず縫い合わせ、理論を繰り返し仕立て直します。理論は答えではありません。理論を身につけた専門家も答えを知るのではありません。皆にあるのは問いだけです。このお互い答えを知らないどうしが、それぞれの問いを持ち寄って安全空間の中で自由に共同作業を進めるその只中に、答えが生まれてきます。〜

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