今年エポックメイキングな論文が出たこともあって、セッションの中でもポリヴェーガル理論やSE™に対する不安の声を聞くようになった。私のホームページに辿り着いてくださる方が用いる検索キーワードも【ポリヴェーガル理論 批判】がかなり多く、関連コラムのビューが群を抜いて多い。
一介のセラピストに論文の妥当性は検証できないし、いずれの陣営にも与するつもりもない。ただ、ポリヴェーガル理論をめぐる一連の攻防から少し時間が経った今、それを眺めていた私たちに起きていたこと・こうした攻防に際して私たちに起きがちなことをSE™セラピストの立場から考えてみたいと思う。
これを読んでくださる方も、ご自身や私(いしかわしおり)の中で起きていることを眺めて、心静かに過ごすためのきっかけにしていただければ幸いだ。
なお、今回は大きく3つの角度──①ポリヴェーガル理論そのものが抱える限界、②議論の解像度が不揃いになる要因、③私たちの中で起きえること──に分けて書いてみた。
◎ポリヴェーガル理論そのものが抱える限界
誤っている部分がある、矛盾がある、変遷している、説明しきれない部分がある
これがもっとも正当な批判で、いずれの陣営においても、今後も議論を続けていただきたいと願っている。
簡略化しすぎ
ここ数年でずいぶんポリヴェーガル理論をめぐる巷の理解が深まった。15年ほど前、日本にSE™が入ってきたばかりの頃は、背側迷走神経は悪者だったし、交感神経と背側迷走神経と腹側迷走神経の三つ巴モデルが一般的だった。
今でこそ、個々の自律神経はブレンドして働く、というポージェスの主張も広まりつつあるのだけど、どうしても未だに簡単な三つ巴モデルの影響は大きい。この三つ巴モデルは説明が簡単なぶん齟齬を生みやすいし、説明しきれない部分がたくさん残る。というか、そもそもの話、トラウマが迷走神経だけで語れるはずもない。
こうした“取りこぼし”を補強すべく、現場の支援者を含むさまざまな人たちが腐心してきている(たとえば性被害をサポートしているロドリックが発した迎合概念など)。そんなわけで、簡略化しすぎとの誹りは無理からぬところもあると思う。
個別性への視点が抜け落ちる
たとえば安全と言ったとき、それは誰にとっても等しく安全、のわけがない。(この件は詳しく書いたことがあるのでそちらもご参照いただければ→ 個別の安全・安心についてのコラムはこちら)
踏み込まれたアクセル(交感神経)とブレーキ(副交感神経)の微妙なバランスは、簡単に○○状態と名指せるものではないだろう。まして、アクセルとブレーキが同時に強く働いているような場合は、同じ人の身体の中でも迷走神経の支配状況は均一ではないかもしれない。
それから、ポージェスも迷走神経“複合体”と述べているように、生体の中で自律神経のケーブル単体で何かが引き起こされることは有り得ない。持って生まれた素質、外傷時の年齢、サポートの質、逆境の種類など、多すぎる変数を相手にしている分、必ず不足部分が残る。
こうした不足部分は永遠に残るはずなので、だからこそ、多面的な、多分野からの参入や議論が起きるほうが建設的だろうと思う。
よくわかっていないのに臨床に使われている
臨床では、介入方法が仮説のままにベネフィット重視で走り始めることがある。たとえば、このところよく聞くオキシトシンは研究が盛んになっていて、おもしろい特性が次々に明らかになっている。ということは謎も多い物質なのだけど、陣痛促進剤としてはずっと使われてきている。
砂糖も塩も水も酸素も、使い方次第で毒にも薬にもなる。誰にとってもどんな場面でも有用で無害な物質は存在しないことは心に留めておきたい。
見ている患者(クライアント)の層が違う
切迫した人に会うことが多いと、「役立つなら何でも使えば良い」という心構えになりやすい。飛鳥井は、ptsd+dso=cptsdと表現した。
ptsd、dso、cptsd、それからそれぞれのグレー領域、そしてトラウマ関連の困り事を持たない人たちの領域。日常的に会っているのがどの人たちなのかによって、見ている世界はまったくの別物になる。これは質の違いであって優劣や真偽とは無関係なのだけど、切り離して考えることが難しくもある。
◎議論の解像度が不揃いになる要因
ポリヴェーガル理論をよく知らずに批判し、批判があること自体を誤りの証拠だと考えてしまう
実のところ、本や文献を読んでいないのに「間違いだ」と主張をする人がけっこう沢山いる。よく見ると(聞くと)、こういう人たちの論調は偏っていたり無理があったり他者の主張に乗っているだけだったりする。
ご自身が本や論文を読むだけでもある程度は篩にかけられるので、発信者の職域や肩書きよりも、それぞれの論調に注目して距離をはかり直せると良いと思う。
一方で、痛烈な批判合戦が巻き起こっていることに不安になり、これほどの批判を受けるのは決定的な間違いがあるからだろうと考えてしまう場合もある。
もちろん、ポリヴェーガル理論が決定的な間違いをおかしている可能性もあるのだけど、押さえておいたほうが良いことが二点ある。【理論というのはそもそも検証されるものなので、議論があって然るべき】ということと、【人間という存在のすべてを人間が解明することは不可能】ということ。
猛烈な批判を受けているからといって、また、人間のすべてを説明できる理論ではないからといって、それだけで理論そのものの価値を損ねるものではない。多くの理論は仮説のまま採用されているのだから。
ポリヴェビジネスとポリヴェ信奉への嫌悪から飛び火
ポリヴェーガル理論が人口に膾炙してからの勢いが凄まじく、ここ数年はその流行にあやかる人たちが目立つようになった。
その空気のせいで食傷気味になった人たちが、ポリヴェビジネスやポリヴェ盲信への嫌悪を募らせて、ポリヴェーガル理論そのものへの批判へと発展させている場合もあると思う。(私も津田真人さんの論文に触発されてコラムを書いた→私たちは“バブリーなポリヴェ”に耽溺していないか)
こうした人たちの中には、上記の、原典にあたらずに批判を繰り出しているタイプの人もいる。
言葉の定義の違い
専門家であっても、(だからこそ、なのかもしれないが)言葉の定義がまったく異なっている。先に書いたように、そもそも、トラウマという言葉からイメージする典型例からして千差万別なのだ。
加えて、ポリヴェーガル理論を語ろうとすれば、次のようなポイントで差異が生まれやすい。
- 安全に安心を含めているか
- 背側にロートーンを想定しているか
- 腹側の負の側面をどの程度想定しているか
- ブレンドまで考慮しているか
- 人間を霊長と考えるか、動物と考えるか、などなど
(この辺りは書籍のレビューに詳しく書いた→ 『ポリヴェーガル理論臨床応用大全』の書籍レビューはこちら)
こうした想定の違いもあって、齟齬を生みやすくしているように見受けられる。
火を大きくしたい、あるいは自分の存在感を示したい
声が大きいことが正しさの証左となる時代なので、正攻法でなくても炎上系が幅を利かせることができる。さしたる信条がなかったり、関心も乏しかったりするにもかかわらず、自分の存在感を高めるために火種だけを落としていく人がいる。あるいは、そもそも全てに興味が薄く、退屈しのぎで煽ったり叩いたりしている人もいる。
これとは少し動機の質が違うけれど、自分の名前を残すこと・オリジナリティを主張することに血道を上げるのも、動物としては一種の性のようなものだろうと思う。勝たねば生き残れないのが野生動物では普通なのだろうから、その性質が引き継がれているのは自然だろう。
ただ、動物は防衛的になるほど攻撃的になりやすい。前者が秀でた杭を打つネガティブキャンペーンだとしたら、後者は自分の存在感をアピールする方向だと言える。動物としても人間としても専門家としても、生き抜くのに必要な要素ではありそうだ。
◎私たちの中で起きえること
何もかも自律神経やトラウマに還元しすぎる
ポリヴェ信奉が神経系や自律神経だけに焦点化する流れになっていることは否めない。これは私自身も自覚しているけれど、何を見てもトラウマに帰結させてしまいがちになるのが、この界隈の住人の性のように思う。
たとえば激怒している人がいたとして、トラウマがトリガーされたのではなくて、暑さで余裕がないのかもしれないし、たまたまお腹が空いているのかもしれないし、器質的な外傷があるかもしれない。そういう可能性を想定する余地は、誰であれ持っている必要があると思う。
病理化しすぎる
トラウマとはギリシャ語の傷という言葉に遡る。私たちは爪先のささくれから骨折に至るまで、さまざまな傷を手当てしながら生き永らえてきているはずだ。傷は手当て可能だし、そもそも人間はまったくの無傷で一生を終えることはできないし、傷があったとしても生活の質を保つ方法は考えられる。
個人的には、かつて負った傷が教訓になるかトラウマになるかの境目を緩められるのがセラピーの理想だと思っている。セラピーが参照する理論が肥大化することによって、まるで傷を負うことが致命的であるかのように捉えられるようになっては本末転倒だと思う。
不完全さや曖昧さを忌避する
攻防を傍観している我々の神経系は、容易く自分のトラウマをトリガーされやすい状態に陥る。我々はソーシャルアニマルなので、精緻に周囲の環境をサーチし、そこにチューニングを合わせるようにできているからだ。
とりわけ、トラウマの強い影響下にあると完璧さを求めて駆り立てられることがある。その結果、「不備のあるものに乗ってしまえば自分の価値まで損なわれてしまうのではないかと恐れる」という反応も出やすくなる。
この心理状態は二項対立で世界を捉えるものであり、性質上どうしても身体や個別性と馴染みにくい。
曖昧さについても同様で、十分な余裕を持てずにいると、先行きの不透明さや詳らかでないプロセスに対して極端に脆弱になる。そのため、自分を完璧さへと駆り立て、外部に対しても十全な裏付けを希求する。事態を掌握するために原因を追究し、白か黒かをはっきりさせたくなる。
パワーを持ったものを忌避する
これも上記と同様に、トラウマではよくある反応だ。トラウマはパワーに勾配がある場合に残るので、被害を被ったり被害者を間近にしていたりするとパワーバランスに敏感になりやすい。
また、支援者の義憤や奉仕の背景にその人自身の無意識の神経系の反応が関係していることがある。それ自体はまったく悪くはないし、むしろ貴く、避けられもしないものなのだけど、パワーに焦がれて刃に形を変えると厄介だ。特に恐怖や不安ベースだと巧みに自分の中で正当化してしまうので、自覚すること自体が難しい。
◎補足:なぜSE™批判にまで波及するか
SE™は特にプロトコルが無く、ボディーワーカーなどの心理系以外の人にも門戸が開かれており、なおかつ、ハンズオンが含まれる。その性質上、効果を実験を通して測ることも難しく(研究に不向きでブラックボックスに映る)、批判の対象とされやすい。
また、混同されがちだがそもそも、SE™はポリヴェーガル理論を基礎として出来上がったわけではない。ピーターの博論を読めばすでにそこにSE™の萌芽が見られるし、(ポージェスとピーターは盟友同士なので影響は与えあっているけれども)ポリヴェーガル理論=SE™ではない。
先に書いた理由もあって、SE™のみならず、身体指向のセラピーやセラピスト全体への批判も根強い。そこへ持ってきて、個々のコミュニティ内やトップダウン派との攻防なども相まって、混沌としている印象がある。
以上、いくつかのパターンを想定してみた。いずれのパターンにせよ、そこに座すかどうかは専門知識や肩書きはあまり関係がない。
最後に私の立ち位置や考えを少し書いておこう。
このコラムが表している通り、私は常に「どこかの立場に固執しない」ようにしている。何事も自分やクライアントに合うかどうか、役立つかどうかに興味があり、そうでないなら引き出しにしまって出番が来るまでは使わない。そう強く心掛けているのではなく、千差万別の心身と交流させていただいているとそうするより他にない。ポリヴェーガル理論についても同様だ。
今回の攻防に限らず、神経系の反応には何らかの意味があり、価値があり、無理からぬ理由がある。例えそれが世界中でたった一人、n=1であっても。いつであれ、その理解を持ちながら、反応と私たち自身とを切り離し、ひと呼吸おいて、距離をはかり、どの道を行くかを決めていい。何を採用するのかは、あなたに選択権がある。
あなたの周囲で巻き起こる様々な攻防からすこし距離を取り、穏やかに眺められるようになっていただけるよう、願っている。
批判論文
Grossman, P. et al. (2026). Why the Polyvagal Theory is Untenable: An International Expert Evaluation of the Polyvagal Theory and Commentary upon Porges, S.W. (2025). Clinical Neuropsychiatry, 23(1), 100–112.
https://doi.org/10.36131/cnfioritieditore20260110ポージェスの反論論文
Porges, S.W. (2026). When a Critique Becomes Untenable: A Scholarly Response to Grossman et al.’s Evaluation of Polyvagal Theory. Clinical Neuropsychiatry, 23(1), 113–128.
https://doi.org/10.36131/cnfioritieditore20260111こちらに津田真人さんの論文へのリンクも載せるので、あわせてご参照いただきたい。→ 津田真人さんの論文はこちら
