第三舞台は思い出か──私のパレイドリア

第三舞台2026年公演パレイドリア ブログ

【2026年版の第三舞台が公演を打つ】

「マジで!?」
ひとり叫んで、その報を二度見して、すぐさま詳報へ飛ぶ。
キャストを見て、2度目の叫び声を上げた。

「マジで!!!」
そこから光の速さで先行予約の抽選エントリー手続きを終えた。

私の若い頃の血液と脳みその半分は、演劇と鴻上尚史でできていた。
そこから四半世紀。
2026年8月28日、マチネ。
朝から謎の緊張と情緒不安定に見舞われながら、紀伊国屋ホールへ踏み入れた。

コーカミさんも第三舞台もすっかり有名になってしまったけれど、ロビーにはかつての小劇場のにおいのようなものも漂っている気がした。

第三舞台は、いつも公演ごとにコーカミさんが手書きの【ごあいさつ】を配る。開場から開演までの時間を、観客はその【ごあいさつ】を読んで誘引されていく。

今回のごあいさつはまた、すごかった。
すごい、以外の言葉を探したいのに見つからない。
鋭いとか重いとかじゃない。
私の中の蓋がいくつも、ずり、ずり、ずり、とずらされて、中を晒されたようになる。

ごあいさつのキーワードは、【忘れる】。

【忘れる】について考えようとすると、どうしても仕事のことを思い出すのだけれど。(私はSomatic Experiencing®というトラウマセラピーのプラクティショナー)
でも、今回それ以上に私の頭を占めたのは、コーカミさんのかつての【ごあいさつ】だった。

1991年当時、コーカミさんはこう書いている。

生きているまさにその時、それが二度と語られなくなる言葉になるかどうか分からないことが、どきどきするくらい痛い。生きていくことは、二度と語られなくなった言葉を生み続けること。ならば、その言葉の思いは誰が見つめるのか。
『鴻上尚史のごあいさつ─天使は目を閉じて インターナショナルバージョンより─』

今回の舞台を観ながら、みんなそれぞれの蓋と対峙したことだろう。

若かった頃。
芝居に没頭した頃。
仲間と決定的な決別をした頃。
最大の喜びとくっついた最大の喪失に、蓋をした日のこと。

仕込まれている蓋は何重にもなっていて、それを何枚見つけるか、何枚剥がすかは、観る人次第。

コーカミさんは、食べ口の優しいハンバーグのような体で、細かく刻んだ棘を練り込んでくる人だった。2026年も、棘ハンバーグは垣間見えた。

それは愛に似てるかもしれないし、Artなのかもしれない。

暴力に近いところがありながらギリギリのところで躱して、優しいんだか厳しいんだかわからないところで舵を任される。

急にイィ音楽がかかり、急にキレッキレのダンスが始まり、最終盤はふわっとリボンをかけるようにして幕がおりる。

THEコーカミ。第三舞台。

滂沱の涙で、スタンディングオベーション。インプットが多過ぎたのか、デトックスが過ぎたのか、終演後はもはや虚無の、茫然自失。バンビの足取りでどうにか出口まで歩き、コーカミさんにかける言葉も出てこず、深々とお辞儀だけしてホールを出て、再び泣きながら歩き始めたところで、パンフレットすら買い損ねたことに気づいたのだった。

語ることで弔われる言葉があり、
語られないことで背を押す言葉がある。

「忘れる」は能動態を取ることができない。だから、準備ができない。手当てもできない。その不可逆の切なさが、いつだって付いて回る。

昨日があり、過去があることで、私たちは自分がここに在ると感じられる。
昨日や過去は、言葉とともにある。
言葉がない昨日や過去は、現在や未来を支えることができない。

選択は、指針があってこそできること。
過去や、自分や、展望が、それをさせる。
傍目にどう見えようと、「そうするしかなくなってしまった状態」は選択ではない。
「忘れた」物語や言葉があると、選択しているつもりで我知らず受動態になってしまう。

誰もが好きで物語っているわけじゃない。
やむにやまれず、物語らざるをえなくて、それしか薬がなくて、いつも同じ物語ばかり携えるようになってしまうこともある。
まるで、物語自体が自分であるかのように、自分の中に自己像をつくって。

今回の作品タイトルは、パレイドリア。
人は、見たいものを見る、なんて言う。
でももっと言うなら、人は、見ようとしたものが心の内に像を結ぶ、とも言える。

蓋をしたその奥底で、自分ではないものが自分の操作盤を仕切っている。
願いが見せる幻、恐怖が見せる無。過去の亡霊に首根っこを掴まれて見せられる桃源郷。あるいは闇。

封じた言葉は痛みを隠してくれ、人生にドライブをかけてくれ、罪に走らせ、仲間を奪い、新たな亡霊を連れてくる。

私たちは自分と一緒にいられるだろうか。他者と一緒にいられるだろうか。敵と一緒にいられるだろうか。過去と一緒にいられるだろうか。傷と一緒にいられるだろうか。

コーカミさんは、ほがらか人生相談で長年ほがらかでない相談を受け続けてきている。今回のラストシーンが、そんなコーカミさんのいまの答えなんだとしたら。

それは、悔しいような、美しすぎるような、残酷なような、それでしかないような、卑近なような、幻のような。

私に聞こえてくるのは、ただ、
世界を変えることはできないけれど、どうか笑っていてほしい
という祈りだった。

そこにあるのは乾いた諦めではなくて、明るい祈りだった。
ウェットに足掻くのは容易く、明るい祈りはとても難しい。
だけど祈りは、誰であれ、能動態になりえるんだろう。

胸の内にパレイドリアを見ながら、語られなくなった言葉を聞いた2時間だった。

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