恥の効用

身体指向の心理療法

この一年、病気や苦しみを軽くするのは、薬よりもテクニックよりも療法よりも、何よりも『人』だとつくづく感じてきました。

先日までののトレーニングを終えて、人がただ一人の人として現れること、ただの人同士として出会うことの貴さに改めて思いを馳せています。

私はこのトレーニングを通して、何度も、あらゆる形で、人との交流に助けられました。

いま胸に去来しているのはキャロライン・スプリングの『Recovery is my best revenge: My experience of trauma, abuse and dissociative』です。(https://www.amazon.co.jp/…/ref=dbs_a_def_awm_bibl_vppi_i3

 いつものようにDeepLで翻訳して読んでおります)

恥はトラウマの中核であると言われますが、恥は、時に仮面を被ってやってくるものです。まるで空気や地面のように、【存在して当然】と感じさせるような顔をして、さも【自分らしさ】や【本音】であるかのような距離感で。

では、「そもそも恥は、何のためにあるんでしょう?」とキャロラインは問います。その答えを彼女は、「集団に属することが良いことであるならば、その集団の中での自分の居場所を脅かすような行動を警告する『恥』という本能が必要だったのです。」と綴っています。

恥がキャロラインの言葉通りの代物ならば、それを感じることが生きやすさにつながっていない限り、その感情や感覚はもう無用の長物だということになります。そして、罪悪感や、向上心や、努力や、真面目さや、熱心さや、多忙や元気のような仮面を被った羞恥心ももう、用済みだということです。

反省と自己卑下は似て非なるものであるように、“本物の”羞恥心は人生を汚染することはなく、腹落ちする発見と共にあり、人生を底上げする喜びや学びとイコールであるはずです。羞恥心の芽生えによって視野は狭まるのではなくむしろ拡がり、身を置くシステムに呼応して自分を匡す決意や感謝を喚起するのではないでしょうか。

キャロラインはこう続けます。「しかし、その集団自体が機能不全に陥っていたらどうだろう。その集団の残忍な生存本能が、適者だけを『仲間』にし、迷いや孤独、鬱や虐待、内気や気弱、精神障害者は狼に投げ出すことを意味していたらどうだろう。」と。

この指摘に、私はハッとしました。

何かを矯正するというのは、ベースラインやゴールを定めてこそ成立する行為ですよね。

それゆえに。

「自分には何か足りない」とか「やるべきことがある」と自分を駆り立てて生きてきた者にとっては、ある時、メジャーな何かなんてないと知ることや、自分は最も望ましい対処を正常に行っていたのだと知ることは、皮肉なことに、人生を頓挫させる可能性をはらんでいるのだと言えます。ですからセラピーはいつも、この際どいバランスの上に営まれるのではないでしょうか。

恥は最後のフロンティアとも言えますし、密室(手術室や学校やオフィスや家庭など)で感じた羞恥心はスタンダードを知り得ませんから、他者からの助けなんて易々と受け取れません。

でも。苦しみの只中にあっても、他者から差し出されるサポートに弱さや不完全さが添えられていたなら、羞恥心を緩めながらも倒れず持ち堪えることができるかも知れません。

自分の弱さや不完全さを他者の弱さや不完全さでもって受け取ってもらう経験が乏しければ、自分にも他者にも弱さや不完全さを持つことを許せません。まして、助けを求めることなどタブーとなり、自分にも他者にも寛容さを欠いていくことでしょう。それは、人間が進化の過程で獲得した人間らしさや、健康や、回復から遠ざかっていくことになりはしないでしょうか。

今回のトレーニングの最大の学びは、

関係性の中で、私の方が先に弱さや不完全さを見せられた時、先に謝ることができた時、先に助けを求めることができた時、私はその時に相対している人を羞恥心から遠ざけることができるのだ、ということでした。そして、その行為は彼らの、「自分は至らない存在だからもっと努力しなければ」とか「自分の苦しさなどさして大きくないのだから」という恥の枷を軽くすることさえも、できるのかも知れないということでした。

しかも、弱く不完全なままに自分の姿を晒して関係性を求めることができた時、私は自分自身のことをも救うことができるのだと知りました。なぜならその行為は、自分の存在や自分の苦しみを小さく見積もって脇に退けてきたパターンから距離を置く、ということだからです。

このトレーニング中、不意に、お遍路さんが装束に書きつける同行二人(ドウギョウニニン)という言葉を思い出しました。私は四国の出身ですから、お大師様(空海)と一緒なら厳しい遍路道も歩いていけると、そんな思いで、仏縁を心に灯しながら歩く人々の姿を間近に見ながら育ちました。私たち人間は、生死によらず、濃淡によらず、様々な縁を糧にすることができたなら、困難な道程も自らの脚で越えていけるのかも知れません。

自分の弱さや不完全さを許すことが、その勇気が、平和的で治療的な関係性の起点となる。パワフルにこの世界を癒やし得る。そのことを、私自身の全体で学んだ一週間でした。

この世界に生きる誰もが日向の道を歩めるわけではありません。そして、太陽のような唯一絶対の巨大な光は、長じるほどに遠ざかっていくものです。でも、だからこそ、誰もが、無数に瞬く蝋燭を心に灯しながら、この先の花道を歩き続けられますようにと、祈ります。

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