『ポリヴェーガル理論臨床応用大全』を読んだ感想と共に個人的な考えなどを書きました。
(このコラムでは主に支援者側の在り方について取り上げています。個別のケースや臨床応用については本著の11章以降に詳しく書かれています。一般の方がポリヴェーガル理論を知る入り口としては浅井咲子『「今ここ」神経系エクササイズ』をおすすめします。私のポリヴェーガル理論についてのコラムはこちらhttps://wholesome.blog/no-8/
なお、ページ数のみで書名の記載がない引用や参照についてはこの『ポリヴェーガル理論臨床応用大全』を指しています。)
さて、本著の冒頭の章でLevineはトラウマを抱えたクライアントのことを「予測不可能で、不安定で、症状が目まぐるしく変化するため、しばしば医師は混乱させられ、失望し、詐病者と決めつける。かまってほしいために医師の注意をひこうとしていると考えてしまうのだ。(Levine p.29)」と述べています。
TIC(トラウマインフォームドケア)やPIT(ポリヴェーガルインフォームドセラピー)について知らなければ、セオリー通りの治療がかえって患者さんを傷つけることがあり得ます。一方で古今東西、成功した支援や臨床は、そう自覚されていなかったにせよTIC・PITであっただろう、と想像できます。
ところで、支援の世界には特有の伝統や文化や現象があります。
支援者同士で、あるいは対価を支払った側が、相手を「先生」と呼ぶのもそのうちのひとつで、私自身もつい口にしてしまうこの呼称も考えてみると奇妙です。
「認知の歪み・見捨てられ不安・ドクターショッピング・疾病利得・ボーダー・・・」等の言葉を使えてしまう雰囲気も、なんとも異質な感じがします。
他にも、心理臨床の書籍や理論にクライアントが触れると傷つく、という現象も私の目には奇妙に映ります。その意味では本著は“異例”と言えるかも知れません。患者としての私を癒し、セラピストとしての私に課題を提示してくれましたから。
さて、本著では人間が言外・無意識に交感し、感受している合図について多くの著者によってかなりの紙幅が割かれています。言語的であるか否かに関係なく、私たちのニューロセプションは相手の神経系に合わせて「生物学的非礼(Porges 『ポリヴェーガル理論入門』)」を感受するようにできています。
ですから、社会の中に巧みに織り込まれた無言のメッセージは侮れません。「魚は水の存在に気づかない」と言われるように、私たちは身を浸した社会の有り様から、生き方、考え方、組織の構造、働き方、関係の結び方、全てを学びます。その時にいちいち「これは支配や加害の構造ですよ」と親切にラベルなど貼られていませんから、躊躇いなく受け入れてしまいます。社会自体が加害的であり、支配的であるからこそ、私たちは誰であれ狡猾な加害者になれるのです。
ひとつ例を挙げます。
「カウンセラーやセラピストになりたいが、困っていることがないのでクライアントになる機会がない」という声はよく耳にします。私が知る限り、その質問に対しての最もスタンダードな返答は「小さな困りごとでもいいから試してみなさい」というものです。
他にも頻繁に耳にするアドバイスは、「害のない存在であれ」「厳しいトレーニングに耐えよ」というものです。言わず語らずのメッセージを含めて、ですが。
では、こうした経緯で支援の場に入った人は、相手の中に問題のみならず、自分にない強さや美しさを見出して敬うことはできるでしょうか?相手を敬う気持ちを、自分にも向けられるでしょうか?盤石な城郭の上から、自分が足を置く地面が一度として安定したことのない人の気持ちに寄り添うことはできるでしょうか?各々の領分を侵しあわずに協調できるでしょうか?自分や他者や過去との付き合い方をより円滑にするために、自分を探究する場としてセッションを使って良いのだと、メッセージを届けることはできるでしょうか? 成長や回復は不完全さと共存する力をつけることであって、問題を解消した先に存在するのではないと、証明することはできるでしょうか?
カウンセリングやセラピーには行かない人も、占いや自己啓発セミナーやコーチングなら行く、という傾向があります。ハードルが低いということもあるでしょうし、そうした傾向は、CPTSDが境界線の侵害を含む以上、一種の再演であるとも考えられるでしょう。ただ、カウンセリングやセラピーが、「弱く、問題のある人が、他人の力によって変えてもらう(あるいは変えられてしまう)場所」だというイメージが、その傾向を後押ししている可能性もあります。羞恥心は、世代間のみならずセラピールームにおいても伝搬します。セラピスト側が不完全さへの不耐性を癒さない限り、セラピーは劇場型・減点方式の時代を葬り去ることはできないと思うのです。
なお重ねて述べるならば、精神医療で傷ついた人たちをケアする難しさは、医療や心理の世界にいらっしゃる方は誰しも経験しているはずです。人は安心して失敗できなければ安心して修復に取り組めるはずもなく、修復の力を培えなければ有機的で完璧さからは程遠い生物としての現実を前にして、成長も回復も体感しづらいでしょう。専門家自身がロールモデルとなり、負い過ぎた荷を解くところから手をつけても良いのではないでしょうか。ここでBadenochの言葉を借りてみます。
「ひとりで安全を生み出すのではなく、利害や判断なしに、まず自分たち自身に深く耳を傾けることが必要だ。(略)私たちは、おおよそ完璧とはいえない状態で十分なのだ(Badenoch pp.104-106)。」
役所の手続きも、建物の設計も、防災も、花屋の接客も、ポリヴェーガルインフォームドであれば全人類の利益になることでしょう。ポリヴェーガル理論は理論であって治療モデルではないため、あらゆるセラピストに採用可能なはずです(Whited p.470)。その恩恵にあずかるための投資を惜しんできたツケを払っているのが、現代のサバイバーだと言えないでしょうか。vanderKolkは、Heckmanが母親への1ドルの投資が医療費・法務費・刑務所費の減額と税収の増加によって社会は7ドルの利益を享受する、と論じたことを受け、ダーウインの知見を経済学の文脈でとらえたと評しています(vanderKolk p.41)。
害を減らそうという試みが完璧さを求める強迫になり、問題とみなした対象は叩いて良いのだと思い込むようになると、警戒態勢から発する「エマージェンシー」の空気が更なる不穏さを呼び寄せることでしょう。その姿勢で改革は成功しないでしょうし、セラピスト側がそうした状態でセッションに臨めば、良い結果にはならないでしょう。vanderKolkは『身体はトラウマを記憶する』に続いて本著の中でも既存のトレーニングの限界と潜在的に有効な治療外のアプローチに言及しています(vanderKolk p.42)。トラウマは臨床現場にあふれていて、事態は逼迫しています。他職種・他流派・他世代と協働する必要に迫られていないならば、むしろその時こそ、刮目して自身と眼前の被支援者を見るべきなのではないでしょうか。(PIT的には“刮目”してはなりませんが。)
一方で、多忙を極めた、あらゆるトラウマが行き交う支援の現場で、どれほどの余裕が許されるでしょうか。トラウマは、個人の努力の範囲を超えた社会全体の問題です。この本自体が統合的であり発展的でありポリヴェーガルインフォームドであることから、ポリヴェーガルインフォームドな構造とはいかなるものかについても、この共著は示唆に富んでいると言えます。ただのまぜこぜ状態ではなく、別個に乱立するのでもなく、個でありつつ群であるような胆力を養うのは、支援者個人のみならず、社会全体の責務なのでしょう。
大きな話になりましたので、私の体験を通して、支援者個人の話に戻します。
私が大きな事故の後に心理士さんからカウンセリングを受けていたころ「他人とうまくやれる簡単な言葉を使えるように考え方を修正していきましょう」とか、別の心理士さんに「あなたは思考に偏りすぎなので身体指向が効かない、今後文章を書くことを一切止めなさい」と言われたりしました。
どのようなセラピーであれ、突き詰めればその目的は、快を増やして不快を減らすこと、その一点でしょう。支援者が自分の中にクライアントと同じ【釘性】、 —すなわち、平均的ではない部分や固有の寄す処、打たれれば折れる脆さ— を持っていると自覚できなかったなら、当初の目的を見失い、ハンマーとなって、叩いて平均化する対象としてしか相手のことを見られなくなってしまうのではないでしょうか。
周囲の不興を買う習慣、お金にならない時間の使い方、回避、解離、依存、強迫、、、 その人を特徴づけるものが何であれ、その人の人生はその特徴ありきで回っています。その手段無しに回らなかった過去があるはずです。そうであるならば、その特徴を適・不適や善悪で裁いたり持ち上げたりしても道は開けないはずです。反応や行動の要・不要を共に考え、用法容量を調整する手伝いでしか見えてこない景色があると、私は信じています。
神経系的に言うならば「安全の『合図』は治療(Porges p.80)」であり、私たちは他個体から安全の合図を受け取ることで安心するようにできています。ですが、自分も他人もダメ出しするような文化で育つと、知らず知らずのうちに危険の合図をばら撒くのが当たり前になってしまうことがあります。TIC・PITを謳いながらネガティブキャンペーンを張るような矛盾がここで生じます。私は支援者のセッション外での関係性やふるまいが、セッション中の相互の神経系とセッションの結果に直結すると考えています。
人が人に出会い、関わり、あるがままの自分とただ共に在る時間は、衝動に駆られた企てを軽々と超えられるものでしょう。私は責めを一人に帰したいのではなくて、それぞれの人や組織や社会が元来持ち合わせている力を信じたいのです。
ひとつ留意したいこととして、これも心理臨床特有の文化かも知れませんが、被支援者の前で支援者がプロフェショナルであることと、ひとりの人間であることとは、両立しづらい傾向にある、ということについても書いておきたいと思います。時にその傾向が行き過ぎると、被支援者への謝罪ひとつにも抵抗感が生じたり、防衛の盾を隔てて相手の繊細な部分に触れる暴力性が見過ごされたりしかねません。
医師であり、患者ともなったThompsonは、本著で自身の体験を綴るにあたり以下のように書いています。
「私は、自分が自己開発の実践をしていることや、私が体験した深い恵みの感覚などについては、仕事上において話題にしたことがない。同僚の前で親密な体験について話すことをタブーだと感じているからだ。(略)しかしそれを話さなかったら、私たち医師は、どのように自己開発の恵みを知ることができるだろうか。私は、落ち着いた腹側迷走神経系のつながりが、医師と患者の関係性に与える肯定的な影響についてよくわかっている。したがって、もはや自身の体験について沈黙することはできない。(Thompson p.190)」
セラピストのどんなグループであれ、一般の人々と同様に、トラウマ体験を持つ人が多いものです(Dana & Grant p.245)。それにもかかわらず、支援者は内的にも外的にも「ひとりの人間である前に支援者たらねばならない」と暗黙裡に仕向けられているように見えます。個人のモノローグや試行錯誤が語られる本著は、そうした意味でも、既成のバイアスに一石を投じる内容となっています。
家庭の中、会社の中、学校の中、様々な組織における改革をボトムアップで進めることは非常に難しく、トップダウン型の変化が最も波及効果が高いでしょう。市井の市民にできることは限られているように思えます。でも私たちは大なり小なり誰かの支援者なのであり、その支援の場に於いては被支援者以上の責任が付与されているはずです。施政者やマジョリティの責任は大きいですが、支援の場でTIC・PITを実現できるかどうかは、私たち個々人の手にかかっています。
Gellerは治療的プレゼンスとは、「セラピストが、クライアントの瞬間瞬間における言語的、非言語的表現を受容的に受け止めながらも、つねに自分自身に根ざしていることを含む(Geller p.139)」と指摘して、こう続けます。「セラピストが、自身のプレゼンスを保っているとき、身体は、クライアントの体験の共感的な指標として機能する。それは、ポリヴェーガル理論で説かれている双方向コミュニケーションの機能といってもよいかもしれない。(Geller p.154)」と。
Whitedはセラピストが「『自身の傾聴に耳を傾ける』と、傾聴は自然に進化して開かれ、個人的な偏見がそのものとして明らかになる。(略)これが、私たちがクライアントに提供できるものであり、それがクライアントの手本となる。(Whited p.470)」と言っています。
Levineは「首尾一貫して純粋な支援を提供するためには、セラピストが自身の感覚を感じること、そして自身の感情と感覚を調整することも不可欠である。この身体の共鳴は、身体心理療法の基本原則であり、ペンデュレーションの恩恵をもたらすために不可欠である。(Levine p.25)」と述べています。
セラピーの精度を高めるには「自分を探究する」より他にないでしょう。自分を精緻に観察し、曖昧さや不完全さと共に在り、他者から受け取った感情や感覚と区別する。そのためにこそ、支援者はクライアント席に座り続けなければならないのだと私は思います。
似ていて、異なっている。私であり、私たちであり、ただ存在する命である。その立ち位置を思い出すために。
※ポリヴェーガル理論そのものの是非は専門家の検証を待ちたいと思っています。私の立場は無条件に本理論を礼賛するものではありません。
※Porgesの言う愛が外集団にまで及ぶかどうかは私には判断がつきません。生物学的には内集団第一主義的な愛が自然かも知れませんが、私自身は現代の人間は自分にとっての内外規定を自覚しつつ内集団を拡張する責任も負っていると思っています。その意味でもこの文章は私の個人的な意見としてお読みください。
※安全は常に相対的評価であり、安全と安心は似て非なるものです。意識と無意識、各神経系への皮質(および皮質下領域)の関与についても論者間の定義は統一されていないと推測されます。論者によって臨床での応用や理論の解釈に差があるのは支援者・被支援者の個人差のみならず、この定義の違いも関係しているのではと思います。詳しくは野坂祐子『トラウマインフォームドケア』、津田真人『ポリヴェーガル理論への誘い』『「ポリヴェーガル理論」を読む』をご参照ください。
※PITでは安全が強調されますが、冒険や自由、予測“不”可能性、粒立った個であること、衝動性や歓喜の爆発、等も人間には必要でしょう。PITは神経基盤を想定していると思われますので、基盤が堅牢である場合やトラウマの文脈からも遠い場合にはそうした要素も加味されると尚豊かな支援になるかも知れません。個人的には、各支援に順序はあっても優劣は存在しないと考えています。
※原著の出版が2018年であるのも関係するのか、各神経の多面性およびブレンドについては詳述されていません。 例えば従前の説では腹側迷走神経複合体は安全な環境においてのみ発動するとされてきました(Porges 『ポリヴェーガル理論入門』)。ただし近年、特に性被害の支援において危険な状況における腹側迷走神経複合体の働きについて検討され始めています。(詳しくは花丘ちぐさ編著 『なぜ私は凍りついたのか』にあたってください。) 背側迷走神経複合体についてもロートーン・ハイトーンの二面が存在すると言われるようになっています。(Kain & Terrell 『レジリエンスを育む』に詳しいです。) (また、全身の中で神経支配に偏在はないのか、個人的に興味があります。)私はこうした多面性やブレンドを考慮する姿勢こそPITに欠かせないと思っています。
※引用/参照と私見を書き分けています。シェアなどの際にはご配慮ください。なお、詳細は必ず原典にあたってください。