【ポリヴェーガル理論が「動物」としての人間に着目し、各種の防衛がノーマルな反応であると示したことは、臨床家にとっても患者にとってもこの上ない福音となった。
なぜなら、生き物にとって「いま生きている」ということは勝利や成功と同義なのであり、過去の選択は至極当然、かつ有効であった証となるからだ。それゆえ、トラウマセラピーにおいて心理教育だけで大きな効果を上げることがある。】
・・・・・そう語られることは多いし、私もその意見におおむね同意する。
一方で、私たちは動物であり、哺乳類であり、「同時に」人間でもあることに、今もう一度立ち返りたい。
『わが国におけるポリヴェーガル理論の臨床応用』の中で杉山は、オポッサムのような仮死状態フリーズと心的トラウマの後年の反応は異なるのではないか、また、瞬間瞬間に記憶を飛ばしているのはシャットダウンとは異なるのではないか、と指摘している(pp. 16-17)
人間の神経系の仕様は野生動物やモデル動物のそれと並べて論じきることはできまい。認知や思想、信条などについても、それらが惹起されるまでには身体が大きく寄与するとはいえ、人間の独自性もまた、介在しているに違いないのだ。(DIDがおそらく人間にしか存在せず、かつ、乳幼児にはみられないことも、その証左であるように思う)
それゆえにか、冒頭に挙げた心理教育のロジックが通用しない場面がある。クライアント自身が「生きていることそのもの」に意味を見いだせず、あるいは、生きながら「魂の死」に直面しているような場合である。
かく言う私がまさに、それだった。出生時に心停止と吸引分娩を経験しているためか、幼少期から「生」への関心も執着もなく、「自分はフェイクの世界の駒に過ぎない」というような乾いた感覚があった。「生」より「死」のほうが近いようなその感覚は、心臓のあたりに氷の杭を打ち込まれているかのような、まるでうっすらと死んでいるかのような、白けて寒々としたものだった。
人間は、命の質を考える。よりよく生きたいと願う。よりよく生きねば生きていけないと思い詰める。その毒性は、生死をかけて闘う時の苦痛を上回ることがあるのだ。
かつて私がハイキングを趣味にしていたころ、想定していた順路と行動時間を大きく外れてしまったことがある。ところが、その時の私はうろたえることはなく、むしろ頭は冴え渡り、身体は切れ良く動き、まるで別人のようだった。
私のような人間であっても、ごく単純に生死を問われる場面であれば心身はその方向性を見失うことは稀なのだ。それは確かに、私たちが動物だからであり、危機の前では生きることそのものが至上命題であって、その質に悩む思考は停止するからであろう。
翻って、PTSDにしろDSOにしろ、人災の要素を含む。しかも、単回性であってもPTSDと呼ばれる以上は慢性的に症状が持続している。生きるか死ぬかのクライシスの上に、繰り返し繰り返し己の命の質さえも貶める思考が加わるのが、CPTSDでありDESNOSなのだと私は理解している。ゆえに、その人たちを心から称える言葉であっても、「だから何?」にしかならないことがある。
そうした時、苦痛の終焉への焦がれ、恍惚感を伴う終焉への衝動が見え隠れする。それは言うなれば、その人の基盤であり、依り代であり、かつ、枷ともなる未完了だ。
無論、臨床場面でこの未完了を完了させることはできない。
ならば、どうするのか。
私にとってSE™マスタークラスのアイオブザニードルには、その答えの一端があったように思う。幸運にも、私はそこで講師から直にデモンストレーションのセッションを受けることができた。
アイオブザニードルは、未完了の完了を目指すのではなく、弁証法的にClとThの間で新たな道を創造するようなプロセスだった。Thの「ただ在る」ことに耐えて踏みとどまる在り方が、言葉を超えてClに届く。それはとても静かで、核心に近づいていくほどにより微細な揺らぎとなって、ClとThの間の浸透圧で滞りが流れていくような時間となった。
アイオブザニードルは臨死体験をした人のためのモダリティだ。しかし、そのモジュール2の募集要項にはこうある。
「溺死、交通事故、身体的攻撃、病気、手術などを含むがこれらに限定されない、さまざまな臨死体験に Somatic Experience® (SE™) の原則を適用する方法を取り上げる」と。(赤字は筆者)
アイオブザニードルは、Thのみならず、Clもまた静謐な時間に耐えうるだけの神経系的な成長を求められた。静謐な空間で人として出会い、交わり、人間の堅牢さや神秘、深遠な心身の営みを前にして、敬虔な、畏怖とも呼べるような情動が湧き起こった。私はこの時に生まれて初めて、胸に、かつて一度停止した心臓のあたりに、あたたかい血が通う感覚を得たのだった。
針の目を通る道筋がこの先にあるのならば、私のこれまでの遠回りも、グレートジャーニーだったと思える日が来るのかもしれない。