友人が「犬を病院に連れて行こうとしたら、吠えるし逃げるし、前に予防接種に行った時のトラウマなんだと思う」と話してくれました。
それを聞きながら、でも私はそのワンコをトラウマを抱えているとは表現しないだろうなと思っていました。
私自身も、当初は「思い出しても不快感がない状態」になりたいと思ってましたし、それがトラウマからの寛解とか回復なんだとイメージしていました。でも、記憶を消す妙薬が今のところ存在しない以上は、過去が振りかざす威力に圧倒されずに並存する、という位が限界なんだと思うんです。
それにもし、ワンコが自分を傷つけた獣医(ほんとは助けてるんですけども)や、その場所や雰囲気を覚えていられなかったとしたら、むしろ危険ですよね。生き物たるもの、何度も同じ傷つきを繰り返してしまうことのないように、ある程度学習して覚えておけるほうが安全です。
そして、吠えたり逃げたりするのは嫌な状況に対するとても健全な反応です。飼い主さんとの関係性が保たれて、甘えたり闘ったり逃げたりできるならば、通院によってもしかしたらまた傷つくかも知れませんが、その体験のせいで後の人生(犬生?)が破綻することはないでしょう。
翻って。もしも、号泣しながら過去の体験を語る人がいたとして、その語りに時間の流れが織り込まれていて、文脈的に他人が理解できるものだったなら、むしろその人は少なくとも回復軌道に乗っているはずです。もちろん、深く扱っていくほどに不快感を減らしていくことはできますが、残念ながらおそらく完全にゼロにすることは難しいのではないかと思われます。
たとえば私にとっての事故の記憶は、「忘れたわけではないし、思い出した時に気持ちが揺らがないわけではないけど、干からびてセピア色になっているし、持ちこたえて手当てができる」みたいな感じです。
というようなわけで、支援者同士、あるいは支援者とクライアントさんの間で【回復】とか【寛解】とかについての認識が大きく隔たっている気がします。
回復はプロセスなのであって決まったゴールがあるわけではないですし、人によってその形は違います。劇的な変化を綴った本や実験結果を見ると奇跡を期待してしまいますが、万人の苦しみをゼロにする方法は存在しなくて、ある人のある困りごとをある程度減らすためには、あらゆるアプローチが必要であり、かつ有用、ということなんだと思っています。
とはいえ、何かを損なわれたり得られなかったりした人にとって、あるべき姿に戻る(至る)ことは至極当然の願いであって、それはとりもなおさず、不快感がゼロの状態を意味する場合が多くなります。
それに、不快な体験や記憶と並存しようとすれば、まるで痛みや加害者と共存するかのようなおぞましさを感じるかも知れません。
そんな時に私は
「もし四畳半の部屋にグランドピアノが置いてあったらすごい圧迫感でしょうけど、体育館に置かれているぶんには違和感がないですよね」
という例え話をします。グランドピアノ(過去の傷つき)を小さくしていくことも大切ですが、それを抱えるご自身を大きくしていくことでもトラウマの威力は小さくしていくことができます。
ご自身がすでに回復軌道に乗っているかも知れないことに気づくことと、ある程度の不快感と共存しようという腹積もりをしていけることで、逆にもう一段、回復を深めて不快感から離れることができるはずです。
過去の傷つきが、体育館に置かれた鍵盤ハーモニカ位の存在感になったなら、もう、進路を邪魔するものではなくなっていることでしょう。ぜひ、伴走している人たちとコミュニケーションをとって、お互いの現在地と目標地を折々に確認するようにしてみていただきたいと思います。