疵の強み

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このところの様々なトレーニングを経て、昨日不意に、“私は己を知ろうとする努力が圧倒的に欠けている”ことに気づいてしまいました。

もちろん、これまでも自分を整えることには心を砕いてきましたし、自分の至らなさに自覚的であろうと努めてもきました。そして勿論それらの棚卸しはまだまだ十分ではないし、生涯研鑽は続くのだと思います。

ただ、私は自分が持っている健やかさや才覚や幸福を全く見ようとしていなかったと、その事実に直面したのです。

今ここで生きている以上、どの命にも強みがあり、力があるはずです。それは、私のような者においてさえも。

自分が特別であることを忘れていると、自分の感じることや為したことや見える世界が誰にでも通用するかのように勘違いしてしまいがちです。私にとって問題点に直面することは容易くても、自分の強みや力を軽視することの暴力性には無頓着だったと感じています。

翻って、大人の色気なんてものは、墓場まで持っていく秘密や地獄で啜った泥水が醸し出すものだと思います。人生の歪みや傷みは、それぞれの人の器の景色となって味わいを増すことでしょう。茶器の染みが唯一無二であるように、誰かの疵はその人だけが持つ味わいなのであって、他人が真似ることはできません。

ところで。私は、『気持ちの問題』とか『努力が足りない』とかいう言葉にイラッとくるんです(笑)。気持ちを切り替えて努力ができるというのはその人に十分なリソースがあるからで、持ち札の限られた人が『わかっちゃいるけど、できない』背景にはのっぴきならない事情があることも稀ではないからです。

私がトラウマティックな過去を経て今ここで生きているということは、そこに対峙するためにリソースを注ぎ込めたからなのでしょう。それらのリソースを持ち合わせていること、そしてトラウマティックな経験をしたこと自体も、私の才覚なのだと自覚していたいと思います。

今日の写真はSE™創始者のピーターの著書(トラウマと記憶)から頂いた金接ぎの器です。

カラーだったら良かったのになぁ!

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