被害は加害者性とセットです

身体指向の心理療法

被害者性と加害者性はセットです。
あるいは、[被害を受けると社会的に攻撃と判断される行動をとりやすくなる]、と言ったほうが正確かもしれません。

✔常に神経系が臨戦態勢なので、特に何もしていなくても周囲の人を緊張させる
✔支配されないために支配する側に回る
✔低く見積もった自分を成り立たせるために周囲を叩きのめす
✔やり方がわからずSOSが暴力的になる
✔人間関係が、溺愛と憎悪・崇拝と裏切りの間を行ったり来たりする
✔境界線の感覚が持てず、独占したい・されたい欲望が強く出る
✔自分の日常が逆境的なため、他人の傷つきを過小評価する
etc etc etc・・・・・

加害の背景にある被害は想像されやすくなりましたが、被害と抱き合わせになる加害者性については、トラウマセラピー界隈ですら十分に語られていないように思います。(当たり前ですが、この話題を持ち出せるのは急場の手当ての後です。)

サバイバーは、つつがなく社会生活を送っている人々の隣で息をし、食べたり笑ったり働いたりし、時に普通であるべく自分を鼓舞し、時にまったく無自覚に防衛的に反応し、時に自分の加害的な関わりに懊悩し、時に社会に貢献しながら生きています。

被害に遭えば、防衛的な反応に支配されやすくなります。防衛とは自分を護ろうとする反応なのですから、それが繰り返されて増強していけば、自己愛的な思考や行動が増えてしまうのは道理です。サバイバーは無力でかわいそうな存在ではありません。もっと言えば、無害でも無辜でもありません。

では、サバイバーとは誰のことでしょうか。
神田橋先生はいみじくも「生きとし生けるもの皆、複雑性PTSDである」と表現されました。サバイバーは遠い彼岸にいるのではありません。私たち自身の別名であり、人類全体の呼称です。【被害に遭った人は、サポートを必要としている気の毒な人】というマウンティングは、被害者を被害者ロールに引き留め続け、無力化します。私たちひとりひとりの人間を隔てているのは、神経系が活性化する方向や強度、そしてそれらを調整する力を育めているかどうかだけです。

トルストイは「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族はそれぞれの不幸の形がある」と言いました。でも、私は逆だと思っています。
何を幸せに思うのかは人それぞれですが、トラウマティックな反応というのは、多少の程度の差こそあれ、似通っているものです。

攻撃を促したり、怒りを感じさせたりする交感神経は、人生を動かす神経です。食べたり、わくわくしたり、がんばったり、抵抗したりして、人生に彩りを添えてくれるのです。(交感神経のグラデーション→https://x.com/wholesome_flow/status/1831898932924002462?t=RE3Kq3X5VJaI7wIwHqpI_w&s=19)
本当にサバイバーの力になりたいなら、ただおもねっているだけでは足りません。サバイバーが本来持っている力を侮れば、傷を広げることにもなりかねません。サバイバーの苦しみには、受けた被害だけでなく自分の加害者性も含まれています。
すべての神経系は使い方次第です。そして回復は、聖人になるためにあるのではありません。(→https://x.com/wholesome_flow/status/1597149637625802752?t=1Q5w1uAfTS9PzsjeLduTew&s=19)

社会の側も、サバイバー自身も、怒りや攻撃とは何なのか、向き合い方だけでなく定義も、考え直す時だと思います。[被害イコール無害・無力]というバイアスは、無害・無力でなければ被害と認めない、という圧力につながります。被害者から棘も毒も抜いて丸裸にしてしまうのは、活力や喜びまでも奪う行為です。

現代は他人の粗探しが横行して、万人が防衛的になっています。支援者がひとりの複雑性PTSDを持つ人間として、誤りや欠損とともに在る者として生きるのが難しい時代でもあります。でも、防衛的な無害至上主義は支援者からも活力や喜びを奪い、サバイバーにも伝染してしまいます。無傷で無害で完璧な支援者しか許さないとしたら、その人をロールモデルに敷いたサバイバーは、完全無欠な無害が目指されることになるでしょう。

神経系のセラピーで目指すのは修復であり、調整力の向上です。それは決して免責ではありませんし、といって無害化を目指すものでもありません。

大切にケースに収めるような関わりは、回避であり解離であり、まさしく自分自身に直面できない人間が陥るトラウマ反応そのものです。自らの受援力(助けを乞う力)の低さの裏返しとしての善意や支援(マウンティング)なのだとしたら、おぞましい歴史の踏襲にしかなりません。支援者が当事者性を失ってはならないのは、サバイバーを孤立させないためとか、権力構造を生まないためとか、だけではないと思います。トラウマティックな影響は、世論の定義次第で悪化もすれば低減もするものです。

巷には、被害のケアや、完全なるトラウマからの脱却のような、耳触りの良い情報で悪気なく傷を常態化させる情報が目立ちます。でも実のところ、回復はとても地味ですし、セラピーではサバイバーがそれまでに見てこなかったところまで見通していくので、負担は小さくありません。特に、被害の自覚はできても、加害と対峙するのは難しい、という方は少なくありません。

被害をくぐり抜けて生き抜いた結果、ただ生きているだけで周囲を傷つけてしまうなんて、理不尽にもほどがあります。
でも、とても見れたものじゃないような過去でも、どれほど足りないところだらけの人生でも、世界を見渡せば似た苦しさを抱える人が沢山みつかります。そして、そこから脱却できた人も沢山います。

被害を経た後、良い人にならなくても、正しい人や普通の人にならなくても、修復して、ふたたび(あるいは初めて)おだやかに過ごすことはできます。元通りにはならなくても、他人や自分の加害性と折り合っていく術は学べます。
それぞれのサバイバーに、オリジナルの成長と回復の道筋が見出されて然るべきです。

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