私は世事に疎いので、この方のことも騒動のこともよく知りませんが、https://note.com/takamatsunana/n/nb1ae53a18af9
このところ自分が感じていたモヤモヤと響き合う感じがあったので、私の考えを書いてみることにします。(事の詳細は存じ上げないので、それを差し引いてお読みいただけると幸いです)
【大声で主張すること】ができる人や好きな人がいる一方で、それがどうにも苦手な人は一定数います。ボリュームの大きな声、強い言葉や文字が、耳や目から感じられるだけでしんどくなる人はいます。生来の繊細さや味わった境遇によってそうした大声から遠ざかることは、本当にトーンポリシングでしょうか。
加えて、この国の閉塞感の中で、我慢に我慢を重ねて思考停止に陥っている人は多いでしょう。そして、無力感を味わい続けて凍りついている人も沢山いらっしゃるでしょう。ただ、そういう人たちも巻き込まなければ社会全体を変えることはできない、ということは間違いないのではないでしょうか。
我慢の末に個人攻撃して溜飲を下げ、排除して、本質には迫らず再び沈黙する・・・ もしその図式がここでも繰り返されていたのなら、それは女性を排除してきた歴史と酷似しているように見えます。失敗した人や間違えた人に対して取るべき態度は、攻撃と排除のかわりに手を差し伸べて対話することだと私は思います。大声を嫌う人をも含みこみ、口を閉じて凍りついている人を再演させずに囚われから解き放つには、対話しかないのではないでしょうか。対話ひとつ、安心ひとつ、手に入れることができないと感じればこその恐れと緘黙が、根深くこの国を覆っているように感じられてなりません。
少し前の投稿に、性スペクトラムの話を書きましたが、https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=892555484908232&id=100024613667483
発達障害やトラウマと同様に男女もまたスペクトラムで考える時代がきています。あちら側とこちら側に分かれて二元論に陥るのは、どの立場の人にも不利益でしかないと思います。多様性という言葉が価値を持つ時は、スティグマや責任の所在論云々抜きで、ポジティブバイアスを自戒しながら尊敬をもって個別化された時でしか有り得ないのではないでしょうか。