他国に比べ、日本のトラウマ界隈で極端に語られない大きなトピックがいくつかあります。
私が感じるのはこの4つ。
①栄養。②結合組織としてのファシア。③サイケデリック。➃エネルギーです。
我々にとって、体験とは総合芸術です。
五感、思考、ホルモンバランス、筋骨格系の状態など、あらゆる機構とともに体験は我々に記憶されています。
トラウマとはそうした総合芸術が調和を欠いた状態です。
調和した体験は忘れることができます。まるで昨日のことのように思い出すことがあったとしても、いずれ色褪せる日を迎えることができます。なぜなら、調和した体験のベースには安全感や安心感があり、忘れたとしても、この先の自分を脅かす心配がないからです。
調和した体験は、我々の神経系が全協調した時にだけ訪れます。恐怖にかられた時、あるいは、何かに急き立てられた中で見舞われた出来事は、神経系の協調を乱します。
危機状態で主導権をにぎり、生存を担う脳部位(脳幹)には、時間の概念がありません。ほかの演者が去り、照明も音楽も消え失せた舞台の上で、いつまでもいつまでもいつまでも、ひとり歌い続けているようなものです。
舞台上に残された演者に必要なのは、「すべて終わった」という知らせです。もうすべては過去であり、今はもう安全なのだ、という知らせです。
通常【安全の合図】と呼ばれるその知らせは、説得だけでは舞台にまで届きません。体験が総合芸術である以上、過日その舞台上に並んでいた演者達が「もうすべて終わったんだ」と声を揃えて呼びかけてやることが、何にも増して効果が高いのです。
昔のトップダウンのセラピーが演者への説得なのだとしたら、身体指向のセラピーこそが総合芸術を総合たらしめるのだろうと思われるかもしれません。ですが実のところ[ボトム]に含まれるのは巷で語られているよりもっと裾野の広い概念です。
ここで冒頭に述べた4つのエレメントについて少しずつ書きます。
まず、①の栄養。たとえば恐怖を感じた時、我々は闘うか逃げるか凍りつくかの選択を迫られます。このとき神経系は交感神経優位となり、中脳水道周囲灰白質(PAG)の活性部位が選択され、抗ストレスホルモンが全身を駆け巡ります。歓び、怒り、落ち着き、悲しみなども同様に、神経・脳・ホルモン・筋肉など全身が関わり、それらすべて、我々自身が食べたものでつくられています。当然のことながら、摂取する栄養の偏りや不足は、ストレスへの抵抗力や回復力を左右します。トラウマからの回復と栄養の知識は、不可分です。
つぎに②ファシア。通常ファシアと言えば筋膜と訳され、筋肉を包むものとしてのみ理解されています。ですが実のところ、結合組織として考えたならばその辺縁、あるいは末端を厳密に決めることはできません。我々の組織や器官はファシアによって支えられ、その支えられた組織や器官をまた、さらに大きなファシアが包み、ユニットをつくり、支えています。このファシアは、当然のことながら危機下で収縮したり虚脱したりする内蔵や筋肉とも同調しています。つまり、体験という総合芸術の成員なのです。
③サイケデリック。依存症や薬物への理解が極端に遅れている日本で、この議論ができる日は相当遠いのかもしれません。ですが世界的にはかなり大きなムーブメントになっていますので、ある程度の知識は備えておく必要があるでしょう。一方、期待がかけられていたPTSDに対するMDMAの処方が米FDAの審議により昨夏否決されました。今後の巻き返しには長い時間がかかるでしょう。また余談ですが、サイケデリック治療の急先鋒となっていたVander Kolkが、自身が犯したハラスメントの責任を問われて所属先から追放されたことも、今後の展開に影響するかもしれません。
➃エネルギー。我々の脳も筋肉も電気活動をしています。そうである以上、電場磁場が発生し、それぞれが影響しあうのは自明です。通り道があれば電気は通りやすく、何かに電導を妨げられればその先へ電気信号が届くことはありません。エネルギーというのは、ごく単純な、小学校の理科の応用です。神秘でもエセ科学でもありません。いまや誰もが重要性を認識している脳のグリア細胞も、微細な活動をとらえる技術が開発されるまで、ただの膠と揶揄されていました。存在や有意味性の証明を、測れることや可視化できることにのみ頼るのは不毛です。
舞台上にひとり残る演者に役目を終えてほしいならば、我々のやれることは、なすべきことは、いま巷で語られていることや、各々のモダリティがターゲットとする対象物よりも、もっとずっと豊かで多様です。
そして、我々自身がひとり舞台を演じなくても、専門家同士で、あるいは信頼できる人の力を借りることで、我々の声を舞台上にまで届くほどに、大きくしていくことができるのです。