「無駄」に怯えながら失っているもの 〜トラウマの書き換えは「無駄」から始まる〜

波に崩される砂の山。無駄に見えるものの中にこそ、感情や意味があることを象徴する一枚。 身体指向の心理療法

現代人は、無駄にすることへの恐れに囚われすぎな気がします。時間にしろ、手間にしろ。
でもそもそも、無駄って何でしょう?
儲からなければ無駄?認められなければ無駄?誰かを変えられなければ無駄?

選挙の投票率が低いのも、この[無駄にしたくない]感覚が原因の場合もあるそうです。自分の行為が無駄に終わったと感じた時、私たちは私たちの存在そのものが無意味であるかのように錯覚して、挫けてしまう傾向にあるようです。

私たちは普段、無駄かどうかを決めている判断基準は自分の中にあると思っています。でも、私たちのジャッジメントはいつだって、これまでの経験によって創られています。つまりは、無駄も、正しさも、勝敗も、生産性も、“誰か”や“常識”や“社会”から無意識に学び取って自分の中に息づかせているに過ぎません。「のどが乾けば水を飲もうとする」ような、生まれながらにして身につけているものではないのです。

「やりたい」や「好き」がトラウマによって濁る時、自分を起点にしたはずの行動ですら自分を脅かすことがあります。
ましてジャッジメントは、沿ったにしても抗ったにしても、その呪縛から逃れられないという点で毒性は同じです。意識的であれ無意識であれ、ジャッジメントに従うのは他人の奴隷に成り下がるのと同じなのですから。

大人が生きていく以上、ジャッジメントを起点にすることもある程度は避けられません。でも、セルフイメージを育てたり、居場所を確保したり、先々を見通したりするのには、別のやり方も考えてみたいところです。

ジャッジメントは、自分の感覚や望みから遠い場所にあります。つまり、弊害が大きいのです。たとえば、何をやっても自分の中に空虚感が漂ってしまうとか。神経系が活性化し過ぎていて、いつもなんとなく調子が良くないとか。近寄り難いと思われて周囲から支えてもらいづらいとか。

自分軸で生きる幸せを味わうための第一歩は、無駄を恐れず楽しむことです。歌い、描き、聴いて、食べて、読んで、喋って、撫でて、ゴロゴロして、神経系をいっぱい鍛えてください。ふだんの生活で無駄なことを楽しめる時間が増えると、成長速度が上がり、セラピーもぐっと深まってきますよ。

(今まで体験してこられた身体指向のセラピーが、いつも有意義で、言語化と反芻が可能な時間がほとんどなんだとしたら、まだまだ、この先の可能性のほうがずっと開けてますよ。身体指向のセッションは、深くなるほど、その場にいなかった人には共有するのが難しいものです。)

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