依存症とともに生きる

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甘い物を止められない人はいても、もやしを毎食摂らずにいられない人はいない(たぶん)。依存に至る物質や行為は脳や身体を変えてしまう力を持っている。

数ある依存対象の中で一番効果が高くて害が少ないのが他人に頼ること。でも、人に傷ついてきた人や自分を貶めている人にはそれができない。 SNSや仕事に没頭する、筋トレする、コーヒーを飲む、自分や他人を裁く、鎮痛剤を飲む・・・私たちはそうやって手近なものに依存しながら急場を生き抜いている。

キャパシティを超えた負荷にさらされ続け、それでもなお孤軍奮闘して生き抜かなければならない時、誰であれ、何かに依存的になるしかない。 問題になる依存の多くは快楽でやってるんじゃないし、依存にはバリエーションがあるだけ。自分も他人も未来も信じられなければ、そして、手近な何かで足りなければ、量が増え、回数が増え、より「苦痛を減らして頑張らせてくれる」ものを求めるようになる。死なないための浮き輪なんだから、簡単に手放せるわけがない。

病気の治療を受けることと責任を認めて罪を償うこととは並存し得るし、治療無くして真に贖罪することなどできない。自助グループをよく知らないままに馴れ合いと呼ぶ人も多いけど、12ステップの中では埋め合わせというステップが明記されている。依存症を裁いている人たちの中に、自分の過ちを埋め合わせたことがある人はどれだけいるだろう?

とは言うものの、依存症はファンタジーじゃない。血縁の中に、一つ屋根の下に、依存症患者がいるというのは控えめに言って地獄だ。 ささやかな希望も根こそぎ奪われ、無力感を強められ、夢を潰され、家計は常に火の車で、世界から自分たち家族だけが孤立させられていく。

さらに、依存症の当人に「病気なのだから」と受容的な目が向けられるほどに、家族は何も言えなくなる。自分の態度が依存の病理を深刻にするかも知れないと考えて恐れる。自分の中の傷も怒りも絶望も、受容的な世論と自責が封じ込める。

依存症は、患者とその家族のトラウマ、共にケアされなければならない。

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