用語が伝えるもの

身体指向の心理療法

「そのつらさはトラウマ由来かも、トラウマは身体が生き抜こうとした適応だよ」
というメッセージの一番の貢献は、
「このつらさは自分が弱いせいではないし、気合や根性ではどうにもならないし、努力が足りないわけでも、人間性に欠陥があるわけでもないんだ」
「生き物として当たり前の、普通の反応なんだ」
と示したことだと私は思っています。
(弱くても頑張らなくてもべつにいいじゃんとも思いますけど)

骨折しても人格は傷つかないし、歳を取るのは不可抗力だし、風邪ひいた時の鼻水は気合で止まらないですよね。
トラウマもそういうのと同じで、本人の中のにっちもさっちも行かないしんどさは「わかってて抵抗してる」んじゃなく、「わかっちゃいるけどできない」結果です。 心と身体を分けて、さらに、脳の薄皮部分とあんこ部分とを分けて考えてしまうと、心身や各脳部位にヒエラルキーがあるような気になってしまう、それが、二元で考える時の大きなデメリットだと私は思っています。

心身や脳が、ヒエラルキーがあるような上意下達システムだったとしたら、どうでしょうか。意思や理性や人間性が最上位にあって、衝動も感情も感覚もそれらがコントロールしていると考えがちになりませんか?そうなると、衝動や感情や感覚が暴走した時には、意思や理性や人間性に不備があるんだと判断してしまわないでしょうか?(上意下達システムを使っていても、うまく手当てのできる方はいらっしゃるかも知れませんが。)

それが行き過ぎると、手に余る衝動や感情や感覚を消したり抑えたり排除するようになったり、ひいては、怪我も病気も意思や理性の緩みが招くもの、になってしまうかも知れません。そうなってしまったら、自分の【上意】も【下】も信じられなくなってしまいます。

翻って。私自身は、あるモダリティの用語によって楽になりました。今感じている苦しみは意思や理性や人間性とは無関係なんだと、更に一段、理解が進みましたから。でも、その用語を巡る意見は割れているようです。
周囲がどんなジャッジをしようと、本人がどんな風に自分を意味づけようと、その人が持っている尊厳は変わりません。そして、個人の課題の背後には当人の意図だけでは破れない網が張り巡らされていることが多いものです。

私は、そうしたメッセージが透けて見えるなら、どんな用語でも理論でも療法でも手技でもケアになると思ってますし、逆に、このメッセージが基盤になかったら、どんな裏付けをまとったとしても恣意的な支援になってしまうのではないかな、と思っています。
どのような用語であれ、支援を受ける側は意図に反して陥った窮地で聞く言葉です。私は、用語の適切さも当然大切だと思いますが、支援する側の逡巡こそがその意味を決めるように思います。支援する側が意図を持って説き伏せ、意味づけ、決め打ちするのであれば、それはいかなる場合にも暴力だと思いますから。

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