大きな傷つきの後に、まるで時間が止まってしまったかのような感覚になってしまうことがあります。
何年経っても変わらないセルフイメージと、日々変わっていく身体。私にとってその隔たりは、とても苦しいものでした。
私はこれまで、失くしたものを取り戻すために生きてきたように思います。そのためになら何でもやりたかったし、どんなことにも耐えられる気がしていました。
でもきっと、失くしてしまったものは、もう二度と、戻らないのでしょう。どこかで、ずっと、それをわかっていたような気もします。
「失くしたものを取り戻さなければ生きていけない」「こんなままで生きていたくない」その気持ちが強すぎて、周囲にはとっくに受け入れられていて、昔とは違う自分としてすでに長い時間を生きていても、自分が自分を許せずにきました。
しんどさの湧き出し口にたどり着いて、元栓を締めたい。答えや説明がほしい。けりをつけて終わらせたい。私はありのままであってはいけなくて、何者かでなければいけなくて、目指すのは失ったのと寸分違わないカタチでなければいけない。
もし自分と折り合って付き合っていくことにしてしまったら、失くしてしまったという事実を認めてしまう。サヨナラも言えずに失くしたものたちは永遠に取り戻せないんだと、思い知ってしまう。
そんな気がして、だから、答えを求めて、説明を求めて、喪失を無かったことにしたくて、誰よりも一番厳しく自分を裁いて、ボロボロに傷ついている自分に何度も何度も刃を突き立ててきたのです。そうすることで、なんとか倒れずに、自分を焚きつけて生きてこれました。
でも本当は、失う前より今のほうが、ずっと幸せなんです。それに、失くした事実をなかったことにしてしまったら、これまでの手当ても、出会いも、痛みも、私自身も、全部なくなってしまうのだと、わかってもいるのです。
自分を知るということは、自分の願いや恐れを知ること、のみならず、その願いや恐れを叶えようとか消そうとかせず、時にはただ、それに寄り添ってみる、ということでもあるのでしょう。
身体指向のモダリティでは、自分を知るための入り口として身体感覚を多用します。でも、緩んで気持ちがいいとか、動かして爽快だとか、そういう動物的リセットだけが人間の身体が持つ特性ではありません。身体の感覚は過去にも未来にもなく、セルフイメージの書き換えを伴いながら、まざまざと今ここから立ち上がってくるものです。それゆえ、自分を知るということ、身体を知るということは、否応なしに、自分の現実や限界と対峙するということになるのです。現実を思い知る時、これまでの夢も価値観も、根底から揺らぎます。身体を感じることの困難さは、慣れていないとか解離してしまうとか、だけではないのだと私は思います。
セラピストに求められるのはそうした想像力であり、自分のほうがクライアントよりも深く、自分を卸すことなのだと信じて勉強してきました。ですから自分のためのセッションを受けた経験だけは誰にも負けない自負があったのです。でもまだまだ、いまだに積み残したフロンティアがこんなにあった。そのことに改めて気づかされて、気が遠くなり、溜め息がもれて、そして、この先の旅に少しワクワクもする。そんな、給水所に立ち寄ったランナーのような心持ちです。
どんなものも経過させていくだけの滞りのない流れが私の中になければ、クライアントさんとの間の浸透圧で過去の遺産を流していくことはできません。自分が見た深さまでしか誰かを伴って下りていくことはできませんし、指針にする自分の感覚に曇りがあれば針路を誤ります。そして恩寵は、一目でそれと識別できるような代物でもありません。危機や困難を避けて選り好みをすれば、恩寵もまた、掌から零れ落ちてしまいます。受け取れば配れるものを、拒んでしまえば自ずから涸れてゆくのが動物なのでしょう。
私はまだ、失くしたものたちに別れは言えません。
でも、「失った状態を手に入れた」のなら、
そして、失ったのとは違うカタチの恩寵はずっと降り注ぎ続けていたのなら、
いつの日か、割れたまま、なくしたまま、傷ついたまま、それを埋めるでもなく、継ぐでもなく、そのカタチのままに、自分を許してやりたいと思います。
失ったものを取り戻せなくても、回復はできる。成長もできる。生きていることを許される。理想や計画とは違っていても、別の幸せにはたどり着ける。
そのことを、私はちゃんと、誰よりも知っているのですから。
今日の写真は先日のWSで自分が描いたものです。WSの名は「Touch in GRACE」。GRACEとは、恩寵を意味するのだそうです。今夏はまさに、降り注ぐ恩寵の中で天を仰ぐような日々です。