ギフトがギフトとして享受されるために

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私はギフテッド界隈で未だに聞かれる「天才」という言葉が嫌いだ。

日本で(他国でも似たようなものかも知れないが)、「普通ではない」という状態は、それがどの方向であれ、とても生きにくい。

傷も能力も絶対値的に働くものだ。プラス100の能力はマイナス100の傷となり得るし、マイナス100の傷はサポート次第でプラス100にもなる。

戦時下でも、無人島でも、紀元前2000年でも、現代でも、全く同じように重宝される能力などというものは存在しない。その社会が望む能力だけが能力と呼ばれるだけのことだ。

だから、たとえば想像力の豊かさは「普通」の人に了解可能な範囲でだけ能力となり、それ以外は病理や無駄や奇異になってしまう。

IQはその人の存在意義を示していない。その人の持つすべての力など、どんな尺度をもってしても測れやしない。そして、場をなごませるユーモアセンスや、こわばった心を解きほぐす優しさや、人の目に留まらない地道な作業をいとわない根気など数値にできない「普通じゃない」特性に支えられて社会は回る。

どんなに現代社会が生産的だと賞賛する能力を持っていようと、それを望まれる形で還元しなければならない義務など誰にもない。社会からの賞賛よりも子育てに専念したいならそれが支えられるべきだし、バリスタになりたいならそれが許されるべきだ。

ずば抜けた能力はギフトやタレントと持て囃されて、それを持つ人をギフテッドやダレンティッドと呼ぶ。でも、現状はもはやギフトやタレントどころかまるで足枷だ。

持って生まれた能力が絶対値的に傷となるその様子を、私は「トレードオファー」と表現したい。 ギフトやタレントを当人が真にギフトやタレントとして享受できるのかは、社会の側に責任がある。

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