オイルトリートメントWSを終えて

身体指向の心理療法

先日まで行っていた全身オイルトリートメントのリトリートの体験が、少しずつ身体になじんできました。
期間中は本当にいろいろなことがあったのですが、アシスタントでいらしていた4人のエサレンジャーさんたちとのエピソードにしぼって書いてみようと思います。

【☆さん】
私にとって生きているという感覚はどことなく他人事のようで、子どものころからずっと一歩退いたような乾いた感覚で世界を眺めて過ごしてきました。そういう感覚を持っているのは自分の心が弱いせいだと思っていたし、きっと周囲の人はその感覚を理解してはくれないのだろうと思って生きてきました。
でも、☆さんは私の話を涙を浮かべて聞きながら「わかる」と言ってくださいました。ご自身のお話も聞かせてくださって。
☆さんと背中が触れあっているときには、自分の輪郭がなくなって、共同体の中でくつろぐような安心感がありました。☆さんの胸に呼ばれるようにして触れさせていただおからだはとても繊細で、自分のなかに☆さんへの感謝や慈しみがあふれてきました。
私の心臓は、たしかに動いていました。ありありと生きている感覚が持てずに生きてきましたが、どうやら、私もこの世界の住人だったようです。
☆さんは、手だけで、まなざしだけで、私のそのままを受け取ってくださる感じや交流が起きる感じがあって、言葉を交わすことが無粋に思えるような、言葉にすると全部が薄っぺらくなってしまいそうな、そんな方でした。
☆さんを思うと、山ほど笑わせてもらった思い出と、繊細な交流と、その両方がよみがえってきて、とても気持ちが忙しいのです。

【◇さん】
今回のリトリートに入るにあたって、エサレンジャーさん達には私が乳がんのOPをしていることをお知らせしていました。
でも「特別に気を付けてもらう必要はない。どこに触れてもらっても良いし、加減を左右で変えてもらう必要もない。」とお伝えしました。もともと知り合いだった◇さんを信じて、甘えさせてもらったのです。
“リンパの廓清はしているけれどリンパ浮腫ではない”。その微妙な段階にある私の身体に、◇さんは以前と変わりなく、むしろ、以前よりも頼りがいのあるタッチで触れてくれました。私の言葉を信じて、受け取って、左右を区別することなく、でも、細心の気遣いも伝わるタッチで。
そんな風に触れてもらうのは、いつ以来だったでしょうか。
~私にも、大丈夫なところがある。私は、生きている。たくましさも、強さも、美しさもある。弱くて、不十分で、何者かにならなきゃいけないと思って人と比べて、できないことばかりを嘆いて、自分を傷つけて、でも、こうして私は許されて、生きている。私は、欠けていない。~
◇さんの手から伝わるいろいろに感極まって、うつぶせになったまま号泣して、「大丈夫?苦しくない?」とリンパ以外のところでお気遣いいただくという有様でした。今も、書きながら涙が止まりません。
「手は、言葉以上のメッセージを伝える。」そのことをまた改めてからだで感じさせてもらったのでした。

【〇さん】
〇さんの手は私にとってはとてもダイナミックでした。圧が強いとか動きが大きいとか、そういうことではないのです。あの感じを、どう表現したらいいのか・・・
ちょうどいい言葉は見つからないけれど、〇さんのように触れてもらったのは私にとっては術前を含めて初めての体験で、とてもうれしかったのです。
セッション直後のフィードバックの時に、〇さんには「とても心地のいい距離感でした」とお伝えしました。当然全裸に触れてもらっているので、物理的な距離はゼロです。でも、〇さんのタッチは優しさやいたわりを私が受け取れるだけの量に調整してくださっている感じだったのです。
時々ありったけの愛情を惜しみなく注いでくれるようなセッションを受けることがありますが、私は、抱えきれないほどの、浴びるほどの慈愛には圧倒されてしまいます。その点、〇さんの距離感は、田舎道でみかける「お好きなだけお取りください」と積みあがった果物みたいな、長距離走の給水所のような、そんな距離感のタッチだったのです。
セッション中の〇さんが、ご自分が完璧でないことに恥じ入ったりうろたえたりしない姿を見せてくださることで、私も〇さんにならって落ち着いていることができました。それはまさに、私がセラピストとして「こう在りたい」と願っている居ずまい、そのものでした。この日はちょうど新月で、こっそり神秘的なお話を交わせたこともまた、心に残っています。
全日程の最終盤、お礼が言いたくてお声がけしたときに、たまたま〇さんの手にはローズクォーツが握られていて、私はそれと知らずにそのローズクォーツごとハグしていただきました。「ローズクォーツはね、恋愛の石である以上に、セルフラブの石なのよ」とおっしゃる〇さんの声を聴きながら。背中から注入されたLOVEのおかげで、今も胸が満ちて、手の先まであたたかい感じがしています。

【∞さん】
∞さんとのセッション冒頭、「全体を見るようにしながら、もう一度ファーストタッチからやってみませんか」とおっしゃっていただきました。
初対面の緊張も確かにあったのですが、この時、私の意識としては全体を見ている「つもり」でした。でも私は「自分は場違いな人間なので、これまで学んできたことはすべて忘れよう」と思っていたんですね。
でも、「もう一度やってみませんか」と言ってくださった時に私の中によみがえってきたのは心理セラピーやほかのボディーワークでいただいてきた言葉や光景でした。ですから、
「カウンセリングは目と心で聴け」「セラピストは促進者であれ」「意図でふれる」・・・
そういう、これまで聞いてきた言葉やしてきたこと、すべてをもって触れさせていただくことにしたのです。
それ以降は都度都度ポーズをとりながら、ひたすら自分に戻り続けることの繰り返しでした。手が動いてくるまでは動こうとしないで、待ちました。
そうしていると、「最後のセッションだから〇〇であるように」みたいな前のめりな意気込みも、「私は未熟者なので」みたいな腰の引けた感情も消えて、ようやく、私は∞さんとはじめて人として出会うことができたような気がします。
きっとこのセッションの冒頭、私は今ここにいる私の全体で∞さんと出会えていなかったのでしょう。ジャッジの手で触れていたのでは、相手の方に心地よさを感じていただくことはできないのでしょうし、全体性を感じていただくこともできないのかも知れません。
モードをスイッチをして以降の∞さんの身体は、とても深く共鳴してくださり、私の手を通して内側で起きる変化を伝えてくれました。この時のことを∞さんは「羊膜の中にいるようだった」と表現してくださいました。

私にとっては触れられることもさることながら、健康度の高い全裸の身体に触れさせていただくというのはかなり日常から離れた体験で、大きなチャレンジでした。普段は、大きな動きや急な動きをしないとか、予想のつかない動きをしないとか、強い圧を使わないとか、必ず予告するとか、いろいろなことを自分に課しながらセッションをしています。その用心深さが、触れられ慣れている方や健康度の高い方にとっては自然な流れや安心感や満足感を損なってしまうことがあるのだと知りました。

受けてくださる方の生理的な反応と、ご希望が食い違っているように見える時、どんなアプローチにするのか、とても悩みます。どんな反応も、身体の状態も、その方が最善を尽くしている結果なのであって、それを他人である私が引きはがしてしまうことにはためらいもあります。でも、人間の身体に備わった基本的な仕様のようなものは確かにあって、それにそぐわない動きや滞りはその方の可能性を狭めることもまた、事実です。

「どこまでならその方の変容や回復や成長やケアを【促進】することができて、どこからは【Too Much】なのだろうか」。セッション中はいつも、そのあわいで調整をしている気がします。ボリューム調整を誤ると、相手の方のためを思って手控えたつもりが、いつしか自分を防衛するための免罪符に変わってしまうことがありますし、逆に、行き過ぎればセラピーによって傷つけてしまうことにもなります。受け取ることと、配ること。その両方を、これまでとはまったく違うフィールドで学ばせていただきました。

今回ご一緒させていただいたエサレンジャーさん達はみなさん、私にチューニングを合わせて、防衛の鎧を脱いで、出会ってくださったと感じます。きっと、迷ったりためらったりする場面もあっただろうと思いますが、そのプロセスをふくめて、私に寄り添ってくださったことに心から感謝しています。

ロングストロークは、私が「全体」であることを教えてくれました。長いレポートの最後に、私が大好きな言葉を引用します。

「Healing(治癒)」の語源は「Whole(全体)」であり、
今でも「Wholesome」という言葉は「健全な」という意味で使われている。
治癒することは「全体」になることなのだ。
───ガボール・マテ

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