ソマティック心理学大会2021年、メモ。
初日。靖さん、花澤先生、咲子さん、ひろさんの分科会へ。SE™やニューロフィードバックの話も聞けたし、花澤先生の共食のお話がすごく興味深い。たしかに、食べるって攻撃的な行為だぁ。
その後のランチの時には、
「いっしょに食事をするって、ほどよくヴェーガルブレーキゆるめながら、気の合った人とくつろいで安心しながら、味覚も内蔵感覚も声帯も視覚も聴覚も顎まわりも手も使って多感覚を統合してるという、なんともセラピューティックな時間よね、きっと。そりゃー、癒やされるわけだ。なくなると調子も崩れるし、渇望もするよね!」
と、大切なご縁ある方たちと語り合うという、何ヶ月ぶり?!という共食時間。最高・・・
私事ながら、★★業界の凋落ぶりを食い止めてくださるであろうおふた方の対面の場に立ち会うことができて、とても光栄そして、希望が見えた!(感涙)
2日目はなんといってもSONYの阪井さんと和葉さんのデジタルコミュニケーションのお話が面白すぎた。
メモが支離滅裂〜
※窓システムの詳しいことはこちらへ↓
◆阪井さんがお話の途中で、画面に足元まで映した女の子と、その足元が消えて見えない場合との違いについてお話された。実際見比べると、私の中の受け取り方が全然ちがう。足のない幽霊をこわがったり、ボディーワーカーさんがクライアントの踏みしめ感を読んだりするように、こちらからむこうへと続く大地に相手がどう立ってるかは大事なサイン。その人がどんな人で、世界をどう見てどう生きてるかが表れるからなんだろうな。横長画面で、縦1.2メートル以下の、丹田が映り込まない画面上の顔は、この大地にいないものとして私の身体は相手を生体認証しないんだなと、はっきり自覚した。
◆zoomを会議に使うのは仕様に合ってるんだろうけど、教える・学ぶ・交流する・セッションする、みたいな時には仕様に合わないということなんだろうか?伝わった気がするのに、受け取った気がするのに、なんだか腹落ち感が圧倒的に少ないのは、情報伝達手段としての部分しか乗っていってないからなんだろうか?
思いもしないものが乗っていったり、期待したのに乗らなかったりする、この不思議さはいったい何なんだろうか?SE™のトレーニングの時、デモ中にクライアント役の私の中で起きた解放が伝播してセラピスト役の方にも別の形の震えのようなものが伝わったことがあったな。(しかも相手を変えて、2回)
◆部屋の中にパカッと開いた別の世界があった時、その境界を窓と呼べるか、創と呼ぶか、目だと恐れるか、個々の違いもあると思うし、それはたぶん、同じ人でも無自覚に瞬間瞬間スイッチするものかなと思う。阪井さんのことだから既に構想されてるのだろうけど、心拍とか体温とか呼吸とか、そこらへんの計測可能な数値とリンクさせてその時のその人にしっくりきそうな窓が提供されるようになったりしたら、助けられる人は増えそうな気がする。(あるときは森の中、ある時はカフェ、ある時は離れて住む家族、ある時はカーテンつき、ある時は元の壁、、、 とか?)(セラピューティックな要素を入れるなら、その人が使えてなかったり使いすぎてたりする色や音の周波数を増減してみるとか?)まぁでも、盛り込めば盛り込むほど、窓の窓らしさはなくなるんだろうしなぁ。盛るなら別の何かかな?
◆香水をつくるのには敢えて悪臭を混ぜることがあると聞いたことがある。デジタルのコミュニケーションを料理に置き換えるなら、【雑味】とか【灰汁】がなかったら、深みも奥行きもない、味も素っ気もないただの材の寄せ集めになってしまうのかなぁ。
精緻で普遍的であることを極めた後には、個別性とか有機的であることとかへ拡げていく工夫がないと、どん詰まる。それは心理療法も同じことだなと思ったり。
◆予測できることとできないこと、自己効力の及ぶことと及ばないこと、その両方があって、かつ、両方の恩恵をバランスよく享受できて、それでこそようやく二元論からの卒業なんだろうな。何かがとても良いものだとしても、そこに偏重したら何かが軋むもん。
ソマティックの時代がなかなか来ないのも、きっとソマティックな先生方はそのことを身体的におわかりだからなんだろうな、とお見受けする。逆説的だけど、真理に辿り着くとそれだけが全てではないと腹に落ちて、広める・儲ける・変わる変える、みたいなことへの欲もシフトして「流れていくところに流れるんじゃない?」みたいに(自覚なく)なってらっしゃったり・・・ するんじゃなかろうか。
◆個人的にはスノーピークとコラボされた遠隔焚き火が見たくてしかたない!もう数カ月くらい焚き火がしたくてたまらないの!(笑)