仲間と語ることは大切ではあるけれども、ただただ被害や愚痴を垂れ流しあうだけではむしろ害になる。明確な枠組みと意図とプロセスが機能している場にのみ、聞くことと語ることが効果を持つ。
無理なくやれることや、無意識に任せるということは、自分がその痛みを経験した時の年齢に逆戻りすること。その幼さのままでやれることを大人の自分がどれだけ繰り返しても、成長も回復もできない。
自己憐憫や怒りの奥にある願いや羞恥心を見ること、誰かの弱さを自分に引き寄せて自分の物語として聞くこと、自分の体験を自分の言葉で話すこと、それは吐瀉物を掛け合うのとは全く違う。
ピアが集う場というものは、踏み出すだけでもとても勇気が要り、同時に、安全でもある。そうであってこそ、本当の意味で治療的な互助の場になるのだと思う。