ライヒ 性格分析を読んで

書籍レビュー

ライヒの性格分析を読んだ。
いや、正確には私の力不足のため全編を読み通すことはできず、どうにかこうにか目で追った部分についても、どの程度理解できたのか甚だ自信がない。
それでも貴重な読書体験であったので、その記録のために何か所か抜き書きしてみようと思う。(個人的な記録なので、文中の「」や-、アルファベット表記などを省略しており、正確な引用ではなく参照に留まる)

ライヒ自身が
「性格分析は、患者にとって他の分析方法に比べてはるかに重い負担である。患者は、分析医が患者の性格を考慮しない時に比べて、ずっとたくさん苦しむことになる。この理由から患者を選ぶことが必要である。その苦しみに耐え得ない人々には、性格分析はとかく成功しにくい場合がある。 P. 88」「性格分析は、全ての場合に、激しい感情の爆発と危険な状況を生み出すことがしばしばある。それゆえに分析医は、常に技法的な意味で分析状況の支配者たることが肝要である。この理由から、多数の分析医は、性格分析の方法を用いることを拒否しようとする。その時彼らは、非常に沢山の症例における治療の成功に対する希望を放棄せねばならないであろう。甚だ多くの神経症が、生易しい手段によっては克服され得ないのである。性格分析の方法、すなわち性格抵抗の組織的な分析の強調および性格抵抗の形式や手段や動機に対する持続的な解釈の投与は、それが患者にとって不快なものであればあるだけ有力なのである。P. 102」
と表現しているように、本書における性格分析的な臨床は時に高圧的にすら感じられる。

訳者の小此木は
「ライヒのブライトイに対して示したようなライヒ個人の性格、魅力的な性格そのもの、彼の積極的で魅力に富んだ性格から生ずる、(中略)親しみ深い温かい態度こそ分析の隠れ身を超え、その背景をなす精神分析の根本的態度であるとブライトイは述べている。もしもこの精神を根底とせずに性格分析の技法を乱用すれば、性格抵抗の解釈は単なる知的な加虐的批評、攻撃となり、これに対する患者の反応は被虐的になり、分析医と患者の間には加虐的被虐的関係が強化されるばかりであろう。 P. 391」
とまで述べている。

一方でライヒは厳しい言葉で分析医を戒めている。
「私は、あなたはよくなりたくないのですという言葉が、それ以上の説明もなしに、しばしば多くの分析医によって、曖昧な状況で一種の非難として用いられていることを知っている。この言葉は分析の用語集から除外されるべきであり、分析医自身の自己吟味によって置き換えられなければならない。なぜならば、我々は、分析治療中の全ての未解決な障害の存在は分析医の責任であることを認めなければならないからである。P. 30」
と。

また、決して多くはないが、現在言うところの発達トラウマについても述べられている。例えば、
「我々は、恐怖症こそ、人格統一の障害の最も興味深くしかもリビドー経済論上重要な表現であると考えるので、それについて論じてきたが、我々が記述した過程は、早期幼児期においては、恐怖症以外のどんな不安を持った症例にも発生する可能性がある。例えば、残酷な父に対する十分合理的な恐怖が、不安を克服した代わりに頑固さや冷ややかさなどの慢性の性格変化を引き起こす場合がある。 P. 241」
のように。ライヒは自身の生育歴に照らして、早期幼児期の体験が持つ意味の重大さをリビドーの中に凝縮して見出していたのだろうか。

また、ライヒが目指したのは単なる個人の回復ではないのかも知れない。
「私は神経症は性的抑制を矯正するところの家長主義的で権威主義的な教育の結果であり、実際上の我々の努力の中心目標は、神経症の予防であるべきだという見解を理解していただくために努力してきたつもりである。ところが現代の社会組織は、神経症の予防を実行するプログラムにとって不可欠な前提条件をことごとく欠如している。 それらの前提条件は、社会制度やイデオロギーの根本的革命によってまず生み出されねばならない。この変革は、今世紀における政治闘争の成果に関係している。 P. 368」「あらゆる社会秩序はその社会秩序の保存に好都合な一定の性格形態を生み出すという事実を研究せねばならない。階級社会において支配階級は、教育や家族構成の助けを通して自己のイデオロギーを、その社会の全構成員を支配するイデオロギーたらしめ、自らの地位を確保しようとする。しかもこの傾向はイデオロギーについてだけ課せられるものではなく、その社会の構成員の態度や思考までをも支配しようとする。 P. 370」「社会秩序の性格形成による固体内への固定は、支配階級の支配に対する被圧迫階級の耐久力を表現している。その耐久力は、自己自身を抑える努力を被支配階級が肯定している限り持続する。この事情は、経済的文化的要求の満足に関してよりも性欲の抑制に関してもっと明白になる。 P. 371」「ある人物の道徳的制止は一定の社会的禁止、特に両親によって代表される禁止に由来しているが、超自我が形成されるよりずっと以前に最早期の欲求挫折や同一化が起こり、その際既に自我と本能の最初の変化が成立している。その変化は、究極まで分析していくと、その社会の経済構造によって規定されていることが明らかになる。その変化もまた、社会組織の個体における最初の再生産と固定であり、その最初の矛盾の止揚なのである。 P 372」

いつの時代も、世論や科学的裏付け以上に利権覇権が疾病の判断を動かしてきたのだろうけれども、本来、臨床心理は社会変革や社会貢献から乖離できるような性格のものではないのだと思う。

この言葉を90年前に、自他共に認める【フロイト自身以上のフロイディアン】であったライヒ(P. 387)が著していたことに驚愕する。
ライヒがもっと言葉を残すことを許されていたなら、その後の歴史はどう変わったのだろう。

この本が最も議論を呼ぶところは、むしろ訳出されていない増補部分にあるかも知れない。
ライヒが受けるべきは投獄や焚書や除名の責めではなくて治療であったのだろう。あるいはもし、俎上に載せることそのものを阻んだ力をも包含した議論が持たれていたなら、と想像する。

今こうしてライヒの文章をまとめながら私の脳裏に浮かんでいるのは『本を燃やす者は人を焼くようになる』という、かの時代の言葉だ。

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