個人化の時代

身体指向の心理療法

今日書いたコラムに関連して思い出したこと。

先日、津田真人さんと小笠原和葉さんのトークイベントに参加した時、【個人化】という言葉が出ました。
その時に話されていたのは社会の中の個々の人々がどんどん個別化してく様子について、だったのですが、私はその時に、個人の中に起きるごちゃまぜ状態やバラバラ状態を連想していました。

〜おそらく統合とはただの凝集体を意味しない。分断された要素を寄せ集めて帳尻を合わせた状態はトラウマであり、PTSD であり、DTD であり、解離状態である。平癒の前段階としての統合は癒着やオーバーカップリングとは似て非なるものであろう。意識や心の統合にあたっては、散在していた個々の要素が一定の耐容範囲に収められて正常化すること、および個々の要素内・要素間のゆらぎが許容される必要があると考えられる。〜

これは、一個人の統合について以前に私が書いた言葉です。
この言葉に、私はこう続けました。

〜最終的には、妥協や合理化を排し、個人内のみならず家庭・地域・社会全体との統合を模索する段階に至ってこそ寛解のスタートと言えるのではなかろうか。〜

トラウマの文脈だと解離は悪者になりがちですが、ちょうど良い具合の解離はとても実用的でハイレベルな戦略です。
たとえば、色々な感情や感覚や思考が入り乱れてごちゃまぜ状態だったとします。その混乱の中ではセラピューティックな時間を持つまでに先ずは安定化を優先させなければならないでしょう。
あるいは、完全に身体と心、あるいは、様々な思考や人格が行き来のない状態で隔たってしまっていたら、それもまた程良い解離とは呼べないでしょう。
生命体の細胞のように、膜を通して行き来があるような状態、それが私がイメージする程良い解離であり、回復であり、統合です。

もし、ひとりの人間の中で臓器や細胞がごちゃまぜ状態だったり膜のかわりに分厚い壁で隔てられていたりしたら、明らかに正常に機能させられません。同様に、社会の中の個々の人々も、程良い距離感になければ社会は機能レベルを落としていくことになるでしょう。

人体の細胞は「自」と「他」を区別する能力を持っています。細胞の膜が正常に機能していれば、ホルモンや栄養や水や、色々なものが行き交うことを許しながら、異物は排除します。もしこの膜が脆かったり分厚すぎたりしたなら、どうでしょうか。私は、社会の中の人々の個人化をそのように想像しました。

望んだことであれ不可抗力であれ、人間は個人化するほどに、むしろ自他の境界はあやふやになるように思います。どこまでが自分なのか、どこまでなら自分の手をのばせるのか、わからなくなってしまうのだと思います。そうなってしまったら、他者は自分の延長となり、同時に、警戒すべき異物となってしまうのではないでしょうか。

残念ながら、私たちは完全に共感しあうことはできません。何かでは意気投合しても、深く知り合うほど違いは明確になってきますし、他の分野ではまったく相容れない考えを持っていることがあるのが普通です。

そんな時、他者がただの異物だったなら、関係を断ってしまうかも知れません。違っているところを欠点だと判断したり、マウントを取ったりするかも知れません。あるいは、違いにまったく目を向けず、同意できる部分だけで排他的なコミュニティを作ったりするかも知れません。

膜のような程良い距離感であれば影響を与えあいながらそれぞれの存在感を受け入れられたはずなのに、個人化してしまっていたら、ただのスギ花粉に細胞が炎上する時のように過剰な反応をしてしまう。個人化とは、自分も他人もリアルさを欠いた、ただの概念になっていくプロセスなのではないでしょうか。

細胞が依存的であるように、私たち人間も他者に依存しなければ生きられません。自律のためにこそ依存が必要で、依存のためには他者が必要です。異物ではない、同種個体としての他者は、個人化が進むほどに見えなくなるのではないでしょうか。

概念化してしまった他個体をリアルな他者に変える手がかりは、どこにあるのか。私はやっぱり、それは身体感覚が鍵を握っているような気がするのです。


長すぎなので、今日はここまでにします

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