芥川賞作に見る、統合の肖像〜『すべてを言う』行為の前段〜

書籍レビュー

昨年の芥川賞受賞作
鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』を読んだ。

「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」
作品の鍵となるこの言葉は、作中にて、愛はすべての事物を、ジャム的に混淆せず、サラダ的に渾然となす、とも換言されている。

ジャムとサラダが並べば、それを区別することはできる。では、ジャムとコンフィチュールとコンポートはどこまで厳密に区別できるだろうか。

作中には、色を混ぜることについて書かれている箇所がある。すべての色を混ぜたら、残るのは灰色だろうか、あるいは、白だろうか。

灰色と白なら、並べられれば区別はできる。ならば、灰色と白について、優劣の判断は可能だろうか。あるいは、残った色から多様な色を選り分けて還元する作業は、まったくの無意味だろうか。

かつてダニエル・シーゲルはこう述べた。
「統合はスムージーではなくて、フルーツサラダなんだよ」と。

本作の主人公の名は統一(とういち)だ。即ち、統一こそ本書を貫くキーテーマだ。
では、統一と統合は違うだろうか?

少なくとも言えるのは、
個人の中の統一、あるいは統合と
社会の統一、あるいは統合は
フラクタルだということ。

個人の中にある組織や器官に名称は与えられているが、その境目を決めているのは単なる利便性に過ぎない。ならば、目、とか、爪、とか、脚、とかいう呼称の辺縁は、末端は、どこにあるだろうか。

心臓を形成する心筋を、私たちは心臓と呼ぶ。ならば、それを支える結合組織は心臓ではないだろうか。心臓を栄養する血液や、心臓が放つパルスは、心臓ではないだろうか。

私たち自身の輪郭を決めているのは何だろうか。私とは、どこまでを指すだろうか。

私たちは混じることもできるし、混ざることもできる。混ぜることもできる。
触ることもできるし、触れることもできる。

灰色1色で描かれる世界は、白と黒の2色で描かれる世界に及ばないだろう。白は白のまま、黒は黒のまま、2次元という制約の中で調和する。それが、私の考える統合に近い。

統合あるいは統一がそのイメージ通りならば、ゲーテの語る【すべて】とは、どんな姿だろうか。【すべて】は、統合あるいは統一の完成形だろうか。

作中にはこんな記述もある。
「言葉はどこまでいっても不便な道具です。使い慣れる、ということがない。」と。
その後に、セックスや祈りが言葉と対比しながら並列されていく。私たちは、言葉で、肉体で、思念で、関わりあうことができる。さりながら、それらはいずれも不十分で、行き過ぎで、奇跡だ。関わりには何かが介在し、その何かは道具であり、我々自身でもある。

隔てられ、衝突があるからこそ、私たちは己を知る。方向性が決まる。自ずから動き始められる。そうでありつつ、ゆらぎと出入りがあればこそ、心身は栄養される。
心臓と肺が己の優位を誇示しあったなら、自滅のほかに道はない。社会における個人についても、それは同様なのだろう。

すべてを言えないままに、私たちは明日も生きる。
それゆえにこそ私たちは、統合や他者を求めるのかもしれない。

統合については、以前にもコラムを書いている。よろしければどうぞ。
https://wholesome.blog/%e5%80%8b%e4%ba%ba%e5%8c%96%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3/

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