先月のソマティック心理学協会のフォーラムで、安全や安心、アートとセラピーの共通点や違いについて考える時間が持たれました。その時のことを振り返りながら、いま考えていることを綴ってみようと思います。
はじめに、私が大切にしている野坂祐子先生の言葉を引用してみます。
「『安心・安全』は、ひとくくりにして捉えられやすいが、トラウマを体験した人にとって、安心と安全はイコールではなく、相反するものである。(中略)支援者が『あなたのため』と提案する対応策は、結局のところ、支援者の安心のためでしかないことがある(野坂祐子『トラウマインフォームドケア』 p. 80)」
ボウルビィはSAFEとSECUREを区別していますが、ポージェスは主にSAFEのみを考えています。それは彼が生物学をバックボーンに持っているからなのだそうです。
先日のフォーラムの中でも安心安全について話されたのですが、その時にプロバイダーさんから提示されたのが仏教用語の〈あんじん〉でした。安心や安全のように自由と対立せず、外部環境に拠るものでもなく、あんじんは自分の中に構築されるものではなかろうか、と。
振り返って考えるに、私はセラピーの中で「やる」と言ったことはやり、「やらない」と言ったことはやりません。予測のつかない行動は控えますし、こまめに予告したり許可を取ったりします。それはひとえに、「愛」と「境界線の侵害」がイコールで結ばれてしまっている方のパターンを強化しないためであり、お互いのリスクを最小限にするためでもあります。
一方で、時にコンテインや安全が、管理や堅苦しさや薄情さに近いものとして感じられることがあります。ここで伊藤亜紗先生の『手の倫理』から一部引いてみます。
「ケアの場面で、『ふれて』ほしいときに『さわら』れたら、勝手に自分の領域に入られたような暴力性を感じるでしょう。逆に触診のように『さわる』が想定される場面で過剰に『ふれる』が入ってきたら、その感情的な湿度のようなものに不快感を覚えるかもしれません。(『手の倫理』 p. 7)」
この件を読んで中井久夫先生の脈診を思い出した方もいらっしゃるのではないでしょうか。私は一人の患者として、治療のみならず問診や触診においてすらも細心の注意が払われるのが当然だと思ってきました。身体接触は貴重な情報収集の機会でもありますが、回避的or侵入的になるほど治療的ではなくなると思っていたからです。特に自分がボディーワークをご提供するようになってからは、そこでこそTICが実践されなければならないと自戒してきました。でも、均霑化は平均化とは別物なんですよね。
考えてみれば、国民のため、利用者のため、子どもたちのため、未来のため、といった大きな主語が含まれていると、自由と交換された安全が目指されていることが多いですね。その安全はもはや、サービス提供者のためでしかなくなっていたりもします。
翻って、私は今夏全身オイルトリートメントのWSに参加しましたが、そこでは「許可を得たり予告したりするのはむしろ控えてほしい」と受け手になってくださった何人かの方からフィードバックをもらいました。また、私はふだん微細な変化を捉えるべく極力少ない圧で触れていますが、「しっかりと」接触してほしいというリクエストも多かったです。個人の好みであるとか、臨床か否かの状況の違いも当然関係するのでしょうが、この時に私がとても勉強になったのは自分が信じている安全安心が暴力性をはらんでいる、という視点でした。
『手の倫理』の中で、伊藤亜紗先生は
「信頼」と「安心」はぶつかりあうことがある。「安心」は、状況をコントロールできている想定に関係しているが、リスクこそが人を生き生きさせる。社会的不確実性を下支えするのは信頼だ(pp. 91-95)。
ともおっしゃっています。
人間は受精の直後から、ハイハイをする、座る、立つ、おなかを満たしてもらう、いやな感じをなだめてもらう、食べる、しゃべる・・・etc
こうしたそれぞれの月齢や年齢におけるノルマをひとつひとつクリアしながら成長します。でも恐らく、課されたノルマを順番通りに、すべて達成できる人は稀で、私たちは身体的には飛び級をして大きくなることができてしまいます。
ただしこのノルマは、積み残しが多ければ多いほど、大人になってからのひずみは大きくなる傾向にあるようです。しかも往々にして、疲れたり体調を崩したり苦境に立たされたりした時、私たちの積み残したノルマの最も古いものが喘ぐように見受けられます。
【何かを学ぶこと、何かを得ること】は、【何かを知らず、何かを持っていなかった自分を失う】ということです。そうであればこそ、成長は喪失であり、痛みを伴うわけです。
乳幼児のニーズは受動的でありつつ自分の全要求を満たされることであり、それこそが神経系の基盤になるはずです。能動と喜びを結び付けて論じる哲学者もいますが、受動の喜びを知らずに能動には行けないことでしょう。
実年齢と、積み残しのノルマ。その矛盾が、ニーズの針路を濁らせることは少なくないように思います。
クライアントさんが受動的に全権を委譲するノルマを達成していなければ、セラピー中に提供する選択の自由や自律のサポートが、セラピストの意図とは裏腹にクライアントさんに恐怖をもたらすこともあるでしょう。逆に、まるで乳幼児に相応しい環境をあてがわれたような違和感が引き起こされれば、それもまた害となります。
ショックトラウマへの介入法が発達トラウマの場合には害になるのと同様に、あるいは、大人にとっての妙薬が乳幼児の毒になるのと同様に、クライアントさんの実年齢に相応しい関わりであればこそ、内奥で疼く傷を抉る可能性があるのだということは、想定されて然るべきなのでしょう。もちろん、その逆もまた同様に。
積み残しのノルマの疼きと、実年齢が言わせる欲求。そのハイブリッドで身動きならず、どちらへ行こうとも何かが満たされず、常にいずれかのニーズを脅かす事態、そこに、私たちは直面せざるを得ないのかも知れません。
では【アート】とも表現されるSE™はいかにすれば安全安心と自由を構築できるのでしょうか。SE™では【実験】や【好奇心】は頻出ワードですが、これらは発達トラウマによる苦境の中でこそ最も縁遠いようにも思えます。
ここから、先日のフォーラムで考えたアートとセラピーの共通点に話を展開します。
私が考えたアートとセラピーの共通点は
「有機体としての人間」が前提としてあり、
定型やプロトコルは存在せず(あるいは忌避され)、
惹起される感情も感覚も言葉にしづらく、
「結果至上主義」の現代にはなじまず、
かつ、よきことばかりが起きるのではなく、時にザワッとする感じが引き起こされ、
でありながら、それらザワつかせる感じすらも重要な要素と見做される
と、メモしています。
これの真偽はさておき、おそらく、こうした特徴を持つものを受容して楽しむまでには何らかの順序やステップや段階が必要でしょう。相互に、そして個人の中に、成熟や信頼や余裕があれば成立するのでしょうが、もしそれらが形成途上であるなら、「安全という名の管理」で補填しなければならないかも知れません。
では、「安心安全」と「自由や信頼」は両立しえないのでしょうか。そうであるならば、セラピーはどう方向づければ良いのでしょうか。
私は「安心安全」と「自由や信頼」という両極を矛盾なく並列させる方法はあるように思っています。鍵となるのは、相互の、あるいは自己への、「尊敬」なのではないでしょうか。
双耳峰のように相反するニーズが屹立した事態を収めるのならば、ニーズを満たすのではなく、ニーズの射程を共に創るところから作業するよりほかにないような気がします。それはセラピスト側のニーズについても同様で、自身のニーズに真摯さと謙虚さを持って向き合わない限り、事態は膠着してしまうのではないでしょうか。こうした両極を包含する創造的な道のりは、「尊敬」から出発してこそ拓かれるように思います。
境界線は初めから存在するのではなく、引くものですよね。安全安心の名の下では、盾越しに対峙する暴力性は見過ごされがちです。一方的に引かれる境界線は拒絶であり侵略です。そうであるならば、双方納得尽くで、痛み分けの形で引くのが理想なのでしょう。有機体らしい、常に鮮度が保たれた境界線を折々に、協調しながら引きたいと考えるのは、青臭すぎるでしょうか。
さて最後に、フォーラムの最終盤で出された 「なぜソマティックの人は同業同士で仲が良いのか」という話題について、私見を書いてみようと思います。
様々理由はあるのでしょうけれど、統合に向かう人々が集うならば、その場は突出した個人が存在し得ない、統合へと向かう場となるからではないか、と私は思っています。個人的に、ソマティックな人というのは謙虚さとオープンな関わりとがバランスされている人であるという印象を持っています。この世界で、100%都合が良いとか、100%悪だとかいうものは存在しえないでしょう。まして、それは個々の人間や各種のモダリティであればなおのことです。
何かに価値を見出さないということは、それが持つ益のみならず害についても謙虚な探究を怠ることにつながりかねないと思います。逆もまた然りで、害を認められないならばどれほどの希少な価値であっても毒に反転してしまうでしょう。
蔑むものの中に神性を、信奉するものの中に毒を見出してこそ、生き物は豊かになれるんじゃないでしょうか。そのロールモデルとなるのは、ソマティックな実践者やセラピスト以外にないと私は思います。
【両極のいずれでもなく、いずれでもある。折衷ではなく、混在でもなく、統合である。揺らぎを許せる橋である。】そんなセラピストが増えれば、この世界は、苦しみを抱えながらも豊かに回っていくのではないでしょうか。