ソマティックエクスペリエンシング®(SE™)創始者のピーターは、医学生物物理学および心理学の博士であり、ロクフィングやクラニオ(頭蓋仙骨療法)のセラピストでもあります。それもあってか、SE™は当初トレーニングのはじめからマッサージベッドを用いて行われていたそうです。ですからSE™はそもそもボディーワーク(ソマティックワーク)なのだ、と私は思っています。
クラニオは【5gタッチ】と呼ばれるとても微細なタッチで進められます。「そんなのは害もなさそうだけど効果もないのでは?」と思われるなら、ちょっと思い出してみてください。
これまでに、背後からの視線を感じて振り向いたこと、一度もありませんか?
笑顔の人と握手を交わしながら、相手が表情とは裏腹にまったく自分に心を向けてくれていないと“わかってしまった”ことはありませんか?
明確な言葉にはできないけれど、虫が好かないとか肌に合わないとかの理由で近づかなかった場所や人物はまったく思い出せませんか?
私たちの身体は物理的な圧だけで変化するわけではありません。体液が巡っているのですから気圧やホルモンなどの影響を受けますし、脳も筋肉も電気活動をしているのですから電気的な影響にもさらされています。そして私たちは人間である前に動物であって、死なないために危険を察知しようとする能力が、時に、より良く生きようとする努力を上回ります。それはいわゆる五感と聞いてイメージできる能力の限りではないものですが、といっていかがわしくも何ともない、生物学的に備わった至極一般的な生体のメカニズムです。
要するに、平時にもその能力が使えている人もいれば、身体から切り離れて生活する時間が長かったり、分析的に考えるほうに比重を置いていたりすると、陰に隠れてしまう場合もある、というだけのことではないでしょうか。(逆にある種のトラウマがあると危機察知のアンテナが大きくなり過ぎて“察知し過ぎる”方向に発達することもあります。その場合はより精緻化している場合だけではなく、不安などによってアンテナが肥大していたりフィルターがかかったりしている場合もあります。)
クラニオやボディーワークやSE™などのトラウマセラピーでセラピストが触れているのは、実際に手が接触している部位だけではありませんし、皮膚や筋膜だけでもありません。セラピストが明確な意図と目的を持って触れる時、物理的な圧だけでは届かない、クライアントさんの核心部や存在そのものにまで触れられることがあるのです。
もしもトラウマを扱う(セラピスト側であれ、クライアント側であれ)のならば、こうしたボディーワークの世界観に開かれているほうが断然その歩みは早くなり、深まります。なぜならトラウマ記憶は身体の、最も原初的な部分に残る反応なのですから。
さらに書き添えておきたいのは、胎児期の知覚についてです。人間の知覚の中でも触覚は最も早く完成すると言われていて、受精後8週ほどで早くもその萌芽を観察できるそうです。視覚は生まれてからもしばらくは完成しないですし、認知や判断を司る高次の能力に至っては30歳頃までかけてゆっくりと成長します。ですので胎児期から乳幼児期にかけて体験した言葉にならない傷つきは、触覚を通して神経系に働きかけるのが最も近道なのではないでしょうか。
私は10年以上前に日本にSE™が入ってきたばかりの頃にも沢山のSE™セッションを受けましたが、当時は明らかに現在のSE™とは様子が違っていました。これはその他のボディーワークも同様だと思いますが、世の中の流れや理論の発展に伴っていかなるモダリティも日進月歩で変化しています。 ですので、『今のご自身の心身が今のボディーワークを体験することではじめて、今のご自身と今のモダリティと目の前のセラピストに対して何らかの感想を持てる』というだけのことかと思われます。
個人的な体験として、認知行動療法にはずいぶん助けられましたし、大好きです。片道2時間をかけて瞑想会に通っていた時期もありますし、ヨガやヨガセラピーに惹かれてスタジオやWSや音源を探して回ったりもしました。自助グループにも何年も通いましたし、ハームリダクションも一通りは勉強しました。テックデバイスもいくつも試しましたし、一時は師についてプログラムまで自分で書いていました。身体指向のセラピーやボディーワークに至っては、もはや何を学び何を受けたのか、とても書ききれません。
そんなわけで私はクライアントとかセラピストとかいうよりマニア沼の住民なのですけれども、おかげで【どれも好き】というスタンスを貫けています。私の人生や回復過程で、絶対とか唯一とか思える出会いはなく、どれもが特別でどれもが少しずつ役立ちました。複雑なトラウマにアプローチできる手段が、単純であるわけがないのです。
役立ったならば価値があり、役立たなければそこまでなのであって、その価値は支払った対価や歴史や科学的な裏付けで揺らぐものではありません。自分が知らなかったり自分に合わなかったりしたものが、この先もずっと、誰にとっても価値がなく意味がなく危険でありまやかしなのだと決めてかかるのは、とても暴力的ですしもったいないです。
確かに、どんなに実験を重ねても、合う合わないはあるものです。モダリティのみならず、セラピスト個人についても、相性とかソリとかその時の自分のテーマとか体力とか居住地とか経済的な事情によって、ふさわしいものは変わります。当然のことながら、理論や技法は常に検証されなければなりませんし、常にセラピストは研鑽を積む努力を続けなければならないでしょう。そして言うまでもなく、魂や命を脅かすような思想やモダリティを決して許さないと明確にメッセージを発信し続けることもまた、社会やセラピストに課された責務でしょう。
ただ、用語にしろモダリティにしろ、何かが【受け皿】たりえた背景には他のアプローチにはない何らかの強みがあるはずなのです。SE™には【コンテインメント】と呼ばれる概念があり、安全にトラウマを囲いこんで調理するための鍋にも例えられます。セラピストがクライアントさんをコンテインし、クライアントさんご自身がトラウマをコンテインする先に、ようやくセラピーはスタートできるのです。つまりコンテインメントな在り方自体がセラピーでもあるわけですので、【排他的】なロジックはそもそもトラウマからの回復に馴染みません。
かつて、人間は尊い存在であって動物と並べるなど言語道断とされていました。そして、西欧諸国こそが進化の最終型であって、未開の人類はそこに追随すべき下位の存在とされました。そうした価値観が生んだのがパワーバランスであり、トラウマティックな社会の構造です。その構造こそがトラウマセラピーの進展を150年は遅らせたのではないでしょうか。 何かを上位だとか下位だとか言って裁いている限り、トラウマティックな構造に栄養を注ぎ続けてしまいます。何かを守るための思惑が防衛的な態度や攻撃的な排除として発露してしまうなら、自分も社会も癒せず、弱者と後の世代にトラウマを押し付ける結果になってしまいます。
流行る前のSE™は、誰にも見向きもされない、いかがわしいモダリティでした。それに比べて現在のSE™は、まるで魔法か神の御業のような扱いです。そんなSE™の創始者がボディーワーカーでもあると聞いて、みなさんはどう思われるのでしょうか。流行れば廃るのが世の常ですから、この先四半世紀もすればSE™も古典か遺産のような扱いになっているのかも知れません。
10年で、たった一人の一言で、価値観など簡単に変わります。大事なご自身の心身の健康も、生き方の指針も、未来へのギフトも、気まぐれに変化する外側の価値観になど任せておいて良いわけがないのです。過剰適応に由来する苦しみは、ご自身が適応してきた社会のセオリーそのものを疑い、それまで脇に退けてきたご自身の感覚と能力を生き方の指針に変えていくより他に、癒せる道はないはずです。身体を癒やすのはご自身の身体を舞台にするより他になく、その道程はトラウマティックな構造と距離をとり、身体の感覚と能力を拘束している鎖を解くところから、なのではないでしょうか。