ソマティックの敷衍3

身体指向の心理療法

「今のあなたは、グランドピアノが置かれた四畳半の部屋で生活しているような感じなんです」と私はよくお話しします。ここで言うグランドピアノは、生まれ持った特性や過去の体験を意図しているわけなのですが、とかく私たちは「この邪魔なグランドピアノをどうにかしたい!」と考えてしまうようです。クライアントさんも、セラピスト側も。


ですので、そのグランドピアノをなんとか小さくしようと分解したり、あるいは見え方を変えようと色を塗ってみたり、邪魔なので外へ出してみたり、叩き壊してみたり、するのです。確かに、そうしていくうちに上手くすればグランドピアノは鍵盤ハーモニカ位の大きさになってくれるかも知れません。


でも、グランドピアノは本当に小さく分解してしまわければならないのでしょうか。


特性も、過去の体験も、悪ではありません。たとえ過去に忌むべき行為が体験されていたとしても、それを体験した人生や私たちの存在までもが悪に染められたわけではありません。例え今、過去によって様々な反応に苦しめられていたとしても、生き抜こうとする力の発露は悪として阻害されるべきではありません。


グランドピアノは、どんなに上手く分解するにせよ、当分の間は共存しながら生きるしかありません。そうでなくても、大きなピアノは壊そうとすればするほど部屋が被るダメージは大きくなります。グランドピアノを破壊して火に焚べる生き方は、グランドピアノに圧倒される生き方よりも楽だと、本当に言えるでしょうか。


グランドピアノはグランドピアノのままで、部屋のほうを大きくしていくというやり方を、私たちはもっと模索しても良いと思うのです。


不快感や悲しみは、ゼロにしなければならないものではありません。何かを悪だと裁き、ゼロにしようと頑張るなんて、トラウマ反応を強めるだけです。グランドピアノのない部屋が平均や理想や健康や正解なのだと盲信してしまったら、部屋の中を歓びや安心感で満たすことが後回しになります。内側から沸き起こる安心感や歓びを持たない空疎な部屋での暮らしでは、いつまでも外側に指針を求めることになってしまいます。


傷は、いくつもの頭を持つヒドラのように、追っても追っても次々に様々な症状や記憶や感覚や感情を立ち昇らせてきます。それらひとつひとつを丁寧に扱い、統合を目指していくこともできますが、自分が大きくなることでヒドラが相対的に小さくなっていけば、そもそも傷は恐ろしいモンスターではなくなります。


私たちは不快感や悲しみと共に生きてきましたし、この先もきっと共に生きていくことでしょう。それは生き物として避けられない宿命であり、それだけの力を人間は等しく持っているからでもあります。
死に向かいながら生にしがみつく私たち生き物は、傷つきながら、傷を抱えながら、それでも生きていかねばなりません。そして、その矛盾の中でも喜びを見出しながら生きていけるのです。


グランドピアノを小さくするプロセスは、経過や見通しや効果が分かりやすく、安価に取り組め、パッケージにすることも一人でこなすことも可能でしょう。一方で、部屋を大きくしていくプロセスはオーダーメイドにしか進まないため、派手さがありません。ただ恐らく、回復に導くことができたセラピーは、古今東西いずれにおいてもその両輪をバランスしながら行われてきたのではないかと想像します。


もしも悲しむ力が未熟ならば、どんなに抱えている悲しみが小さくなってもこの先の日々を生きていける自信は湧いてきません。
もしもとっくに小さくなった痛みにもささいな出来事をきっかけに圧倒されてしまうなら、いつまでも自分が癒えたとは思えないでしょう。
もしも強さに焦がれるあまり自分の弱さを恥じ続ければ、他者の助けに手も伸ばせず、ありのままに生きることすらままならないでしょう。


困り事を消すことにしか焦点の当たらないサバイバルは、いつまでも終結を迎えられません。【ままならない人生を、それでもどうにか折り合って生きていく力】をつけること、それは、困り事を小さくしていくことと同じ位に、もしくはそれ以上に、大事だと私は思います。


四畳半の部屋が八畳になり、十畳になり、音楽室ほどの大きさにまでなったら、きっとグランドピアノの存在に圧倒される時間は少なくなるはずです。そこにさらに運が巡ってピアノの弾き方を教えてくれる人に出会えたなら、かつて自分を圧倒した邪魔な存在を、生涯の相棒にすらできるかも知れません。グランドピアノがいずれ歓びの歌を供することすらできるかも知れないのだとしたら、隠され、疎まれ、壊されるにはあまりにも惜しいのではないでしょうか。


私は、ピンチはチャンスだとか、許しから始まるのだとか、そんな花畑の話をしたいのではありません。ただ確かなのは、トラウマや特性が突きつけてくるのはいつも、生きようとする私たち自身の咆哮なのだということです。他人の慰めがなんの足しにもならなかったとしても、ご自身を知り、ままならない状況でこれまでずっと懸命に生きようとしていたのだと腹に落ちたなら、ご自身と斬り合う時間は減らせるかも知れません。

「グランドピアノを、ご自身に相応しい生き方や、環境や、関係性を選び取って新しく踏み出すための、サインに変えていただきたい。」私が伝えたいのは、その祈りです。


苦しみを減らすことと、苦しみと共にあること。それらを両輪で進めたその先に「そういえばだいぶ以前とは違うな」と不意に静かな感慨がやってくるのが、生き物らしい自然な回復の姿のような気がします。

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