トラウマについてNo.15 再演

トラウマについて

彷徨の
螺旋階段
繰り返し
同じ景色を
見つつ上りき

私がこの短歌を詠んだのは、18歳の時でした。

私はなぜ、いつもいつも、同じ過ちを繰り返してしまうだろう。

私はなぜ、いつもいつも、同じ苦しみに行く手を塞がれるんだろう。

そんな嘆息と共に生まれた歌でした。

トラウマには【再演】と呼ばれる悲しい現象が見られます。その内容は、被害的な体験を繰り返したり、極端に防衛的になって粗暴な行動を採ったり、自分の感情や感覚から解離したりするなど、多岐にわたります。残虐な加害者がかつては被害者だった、というのは、支援者にとっては馴染みのある図式ではないでしょうか。

私たちは【幼いころ我が身に起きたことをもって自他と相対する】ようになります。すなわち幼いころに「しておくべき体験ができなかった」とか、「逆境を体験してしまう」ということは、暴力・搾取・否定・無視・不信・支配・自棄・恐怖・我慢・依存・悲観・犠牲・無力感・・・etc・・・それこそが生きていくということであり、関係性であり、愛であり、正義であると学ぶのです。

周囲の同情を引くような不遇や、自分の弱い面を見せられるサバイバーは多くはありません。コミュニティーの中で疎んじられ、その孤立や不遇に毒をもって応じるような者こそが、最も傷つき、最も助けを必要としていたりします。皮肉なことに、サバイバーは学んできた生き方を忠実に踏襲しているに過ぎず、いつも漠然とした苦しさに直面していながら、悪びれることも、支援を求めることも、支援に感謝することも少なく、「困った人」だと裁かれがちです。

再演によって本人はもちろん苦しみますが、その影響は、本人の傷を深くすることだけに留まりません。再演を目の当たりにする家族や友人や支援者の心も打ち砕いて、二次的なトラウマを広げてしまうのです。その有り様を目の当たりにするたび、本人の羞恥心や自己嫌悪や孤立は深くなり、周囲からの罰や裁きもどんどん加速していってしまいます。

そうした悲しい再演はなぜ起きるのでしょうか。「トラウマがあると予測不可能なことに耐えられないので、自分が慣れた結果を招くようにしている」とか、「主導権を握り直すためにリトライしている」とか、「脳に決まったパターンができ上がる」とか、「慣れた状況はある種の鎮静作用を持っている」とか、様々な説が提唱されています。そのどれもが原因であり、おそらく複合的な影響をもたらしているのではないかと思われます。

私が心配していることは、「なぜ」に棘が生えて大きくなって、「どうやったら」を凌いでしまうことです。「なぜ私はこんなに愚かなのか」という自問が「どうやったら今より楽になれるか」の模索を上回ると、生きていること自体が罰となり、死すらも救いになってしまうのです。

「困った人」は「困っている人」です。再演すらも慰めになるほどの苦しみが、背後にあります。それは恥ずかしいことではなくて、ただ、トラウマの反応が起きているということなのです。

どうかその仕組みを、困っている方に、知っていただけますように。

Verified by MonsterInsights
タイトルとURLをコピーしました