遺産は恩寵となって

身体指向の心理療法

トレーニングの1stモジュールが終わった。
オンラインで固まった身体のままによろよろと散歩に出て、いつもの石畳へ歩を進めたら、不意に揚羽蝶が飛び立った。黒々として艷やかな、ゆらめくような揚羽蝶の舞いに、小さい頃に喪くした人の面影を見た。導かれて、ここまできた。

トラウマを扱うというのは富士登山に似てる。富士山に登るのは確かに大変だけど、あれほど単純でサポーティブな山も珍しい。登山道は広いし整備されているし、途中に幾つもの山小屋もあるし、下り坂も岩場もなく、ただひたすらに真っ直ぐ登るだけなんだもの。一定レベル以上の体力がある人なら、五合目まで車で乗りつけて、途中に山小屋での一泊を挟んで、晴れた夏の日を選べば、さほど危険なく登れる。そんなわけだから、さした用意もせずに登頂を果たした人が「チョロい山だったぜ」と語ることは多い。

でも、その人にとっての富士山がチョロかったのは“たまたま”だ。どんなに備えても、山である以上は不測の事態はいつも足元で口を開けている。冬の富士山はエベレストより過酷だ。夏でも、雨が降ったり風が吹いたりすれば途端に牙をむく。

思えば私は人生という富士山を、ブリザードの中、裸足でよじ登りながら「こんなんチョロいぜ、早く来いよ」という頂上からの声に「くそったれ!!」と毒づきながら喘いでいた気がする。

若さや健やかさという下駄を履かずに、私はここまでの日々を登ってきた。それは私だけの経験で、このトレーニングを通して、のたうち回ったその日々こそが鮮やかに私の財産に変容していく様を見た。その様は、まさに恩寵。他でもない、苦しみ抜いて生き抜いてくれた、私自身からの、恩寵だった。

この先もし、小さな一歩すら踏み出すこともおぼつかない、はだしの誰かが厳冬期の富士山に登ろうとしている場面に出会ったなら、私はその気持ちに寄り添って、一緒に夏が来るのを待ちたい。靴や雨具を一緒に揃えながら、その人の足がおのずから歩み出せるように、祈りたい。山腹から仰ぎ見る青空と頂上と、眼下に広がる自分達の足跡を、お互いの心身で響き合わせながら。

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