トラウマからの回復、あなたはどんなふうにイメージしていますか?
トラウマセラピーは一般的に3つのフェーズに分けられると言われています。
まずは安定化やケア。つぎに実際にトラウマにアプローチしていくフェーズ。最後が統合です。これら3つのフェーズがあることは、多くの療法家が共通して提唱しています。(津田真人『ポリヴェーガル理論への誘い』https://amzn.asia/d/iyuT8cuを参考にしてください。)
トラウマへアプローチするのは専門家の領分ですが、その下準備となる安定化のフェーズは当事者や一般の方にも取り組めることがたくさんあります。(以前にこんなコラムを書きました→【安定化】と【アプローチ】 )
では、統合とはどんな状態でしょうか?
私のセラピールームの屋号は、ホールサム(Wholesome)と言います。この名前はガボール・マテの言葉から取りました。
「Healing(治癒)」の語源は「Whole(全体)」であり、今でも「Wholesome」という言葉は「健全な」という意味で使われている。治癒することは「全体」になることなのだ。
───ガボール・マテ 『身体が「ノー」と言うとき』
そのようなわけで、私にとって統合という言葉は回復とほぼ同義なのです。
統合の難しさは、トラウマにアプローチする時の難しさとは全く質が異なるものです。なぜなら統合は、トラウマにアプローチしていればずっと手放さずにいられた[過去を帳消しにする]という希望と折り合いをつけるということだからです。
どんな妙薬を使っても、どんな優れたモダリティやセラピストの力をもってしても、過去を変えることはできません。いつかは、傷とともに生きるフェーズへ移るより他にありません。ここは、支援者と当事者の乖離が生じやすいポイントだろうと思います。
過去と折り合うことは、時に加害者とともに生きることのように錯覚され、容易く選べる道ではありません。その上、本来なら手に入るはずだった暮らしや、失ってしまった人生を取り戻す、という希望さえ霞ませるのです。統合の難しさは、そうしたところにもあると思っています。
けれど、私たちはこれまでもずっと、トラウマを手当てしながら生きてきたのです。トラウマとは元来、傷を意味する言葉です。これまでの人生において、転んだり、擦りむいたり、骨を折ったりしながらも、私たちは手当てをし、その身体を永らえさせてきました。心の傷もまた、手当てをして永らえさせることが可能です。
トラウマ概念が広まったことは歓迎すべきですが、それによって傷つき体験の何もかもをトラウマとみなすような風潮が生じていることは残念です。
スマホで調べ、本を読めば、煽情的でインスタントな回復プロセスが喧伝されています。「それに比べて自分は」と落ち込んでしまうのも道理です。
活動的であれと煽られ、同時に深く眠れと煽られる。人と繋がらなければ良い人生ではないと煽られ、同時に自己完結できるツールが溢れ、自己責任論に道を閉ざされる。
そのうえ傷を持って生きることすらタブーになってしまったら、私たちは何処にも行けず、凍りつくより他にありません。これをトラウマティックと呼ばずに何をそれと名指せば良いでしょう。
神経系に照準を当てた戦略として、恐れを煽動するほうが喜びに導くよりも簡単に術中にはめることができます。多くの情報提供やプロモーションは、その大原則に従って展開されています。私たちは不完全さを消費され、自分を消費して、社会に奉仕しているきらいがあります。本来ならば、不完全さのままに統合は可能であるにもかかわらず、です。
セラピーを重ねれば、トラウマの威力自体が小さくなり、それを受け止める度量のほうも大きくなっていきます。それなのに、まるで傷のひとつも持っていてはいけないかのように考えてしまうのは、なんとも残念です。
生き物は、トラウマ未満のしんどさから完全に逃れることはできません。診断基準を満たさない不調や、回復後にも残る記憶の残滓は、どうしても払拭しきれるものではないのです。そこを含めて扱えるのがセラピーですし、トラウマと名指さなくても、栄養状態を改善させたり、ボディーを調整したりすることでも、それらとの付き合い方は変えていけます。
生活を損ねる影響を減らしていくことと、自分が身につけた力やトラウマから被る影響を鑑みて折り合うこと、そのバランスを取ることができてこそ、統合は進むはずです。病理化し過ぎることは、無力感や被害者ロールへの固着を招きかねません。
トラウマからの回復にはリソース(資源)が必要です。クロワトルは、トラウマからの回復には受傷前以上のリソースを必要とするが故に難しいプロセスになるのだと言っています。
かたや、津田真人さんはリソースにはネガティブなものも含まれると述べています。あくまで当事者本人が自認したり目指したりするものだと思いますが、確かに私も、ネガティブな体験こそがリソースとなる様を何度となく目の当たりにしてきました。弱さや不遇や傷つきが活路となることも確かにあるのです。
ソマティックエクスペリエンシング®を創始したピーター・リヴァインは、野生動物にはトラウマは無いと言っています。でも、野生動物だって天敵に遭遇すれば脱糞するかもしれませんし、転落しかかった崖付近には二度と近づかないかもしれません。なぜそれをトラウマと呼ばないのでしょうか。
トラウマセラピーの文脈において、トラウマとは不動化を伴うものだと考えられています。ですので、可動化へ導かれますし、いざ可動化し始めたならば、トラウマと呼ばれることは少なくなるでしょう。ここもまた、支援者と当事者の間で乖離を生じやすいポイントだろうと思います。
動物は学習する生き物です。過去の体験がトラウマであるか教訓であるかを分ける境界をシフトさせること、それがトラウマセラピーでやっていることのように思います。
ボディーワークを学ぶ中で、私は素晴らしいタッチに出会うことが多くなりました。そうした体験を通して、高齢であったり、肢体が不自由だったりする人のタッチが、素晴らしいHealingへ導いてくれることがあると気づきました。
私たち人間は共鳴しあうからこそ、セラピストはまずは自分のケアをしろと言われます。神経系の協働調整(co-regulation)なんて言葉もありますね。それなのに、不完全にも見える身体から発せられるタッチが素晴らしいヒーリングを生むのは、一見とても不思議です。
そのことから推測できるのは、私たちが共鳴し合うときに交感しているのは、おそらく完全さではなくて、統合度合いなのだろうということです。私たちは傷つくことや老いることを避けられませんが、謙虚に真摯に統合へと向かうことは、生涯、可能です。
かつてピーターが著したベストセラーのタイトルは『内なる虎を呼び覚ませ』でした。私たちは誰もが、大なり小なり、傷つき、怒り、嘆き、咆哮を上げる虎を内に飼っているものです。その虎をコントロールするのでもなく、忌み嫌うのでもなく、可動化の力に変えよと言ったのがピーターだったのです。
そのピーターが、次回作のタイトルを『内なる虎を抱きしめる』にしようかと考えているそうです。その態度にこそ、時代の趨勢と、彼自身の回復や統合が見て取れる気がしてなりません。
統合は常に【ing形】でしか有り得ないのだろうと思います。どれほど自分のためのセッションを受けようと、どれほど深く自分を掘り下げようと、それが過去である限り、現在のパフォーマンスの質にはつながらないのでしょう。NICEに仕上げた自分、あるいは、自分のNICEな面、のみでの関わりこそが、むしろ不完全さを伝え、相手を統合から遠ざけてしまうのでしょう。
今この場に自分の不完全さを持ち込み、怒りや悲しみさえも俎上に上げて関わる。それでこそようやく、私たちは統合へと向かい、全体となって人と関わり、癒やし合えるのではないかと思うのです。
※統合については以前にこんなコラムも書いてます→

