原初的な自己感(「これが私だ」とか「いまこんな感じがする」とか)を担っている脳部位は、大脳新皮質の中でも奥の方の、比較的古い部分にあたります。(代表的なのが島皮質などの古皮質)
それに対して、社会的な自己感を担う脳部位や脳内ネットワークは、進化的により新しい領域にあります。(メンタライジングネットワークや側頭頭頂接合部など)
同じ「自己」であっても、司る部位やネットワークは別なのです。
この原初的な部分と社会的な部分は、構造的にも発達的にも、そして進化的にも【順番に】できてきます。
まずは原初的な自己を司る領域が発達して、その後に社会的な自己へとつながっていきます。
ということは──。
コミュニケーション能力を高めたい、恥を雪ぎたい、空気を読みたい・・・・
のであれば、まずは原初的な自己感を育てなければならないということです。
トラウマセラピーの界隈で「身体を感じる」と言うとき、それはたいてい原初的な自己感のみを指していることがほとんどです。
でも、私たち人間は社会的な自己感を司る領域をあえて進化させて保有してます。それはつまり、その領域を活用できることが、生存にも健康的な生活にも有利だったということなのでしょう。
たとえばマインドフルネスにしろ、ボディワークにしろ、ひたすら自分の内側に没入する使い方もできます。
現代の生活にしても、自分ひとりで完結させることが容易になりました。
私たちは、社会的な自己感を育むのが難しい時代を生きているとも言えるのです。
『レジリエンスを育む』を著したキャシーとスティーブは、「人と繋がることに怯えているようなクライアントに対して、無理に社会的関わりや人とのつながりを持つように勧めることはかえって負担となる(中略)むしろクライアントが「無理に人とつながろうとしなくてよいのだ」と思えるようにクライアントの負荷を取り除いていくことのほうが、効率的である。」と書いています。
浅井咲子さんは、
「つながりモード(腹側迷走神経)が働き、社会的なつながりが保たれるには、消化・休息モード(背側迷走神経)の時間がある程度確保されることが必要なので、社会的な時間が長過ぎたら必ず一人で静かな時間を持ちましょう。
(中略)
つながり、絆、ネットワークという名のものにどれだけわれわれは自分の時間を犠牲にしているか、一度考えてみるのもいいかもしれません。つながりは腹側迷走神経によって自分の心拍が落ち着くために必要ぐらいに考えておくと、逆に関係性がうまくいくので不思議です。」
と『「今ここ」神経系エクササイズ』の中で書いています。
たとえば仕事で大きなミスをして、同僚や上司に迷惑をかけてしまったとします。
失敗をリカバリし、失った信頼を回復させるために孤軍奮闘することもできるでしょう。
でももし、同僚や上司が「やっちゃったことは仕方ないし、一緒に挽回しよう」と笑ってくれたら、自分を卑下する気持ちも、孤軍奮闘しようとする力みも、一瞬で霧散してしまうはずです。
他人の存在とは、それほど“便利”なのです。
トラウマは出来事の大きさや質だけが問題なのではありません。
トラウマを残す出来事には、必ず人災の要素が絡みます。
権力の勾配があり、弱者の側にサポートの手が届かなかったとき、出来事はトラウマとなって残るのです。
即ち、他人を寄せ付けず、自力で完結させようと孤軍奮闘する生き方は、トラウマティックな在り方を強めかねないということです。
必要とする関係性の質や量や濃度は、その時々で、それぞれの人によって、さまざまに異なるのが自然です。つながりは、それを前提にするのも、信奉するのも、忌避するのも、“不便”さを招きます。トラウマというのはあらゆる【ちょうど良さを見失う】ものですから、【自分にとっての関係性はこういうものだ】と決めてかからず、その時々でバランスを考えられると良いですね。
また、共感とは、自分の心を使って他人の心を思う能力です。
つまり、自分の感情や感覚に名前をつける力がなければ、他人への共感は十分に発揮されません。そして、いざ賦活した自己感と他者をスイッチする力は、社会的な自己を司る脳領域を育てることでしか発揮できません。
滅私奉公は燃え尽きますが、原初的な自己感を伴う共感や奉仕は、それが起きづらいと考えられています。おそらくそれは、原初的な自己がうまく機能することで、境界感覚や神経系への負荷、心理・身体の疲労を適切に感受できるるからでしょう。
支援職は、とかく他者を優先しがちです。親も介助者も同様ですね。
でも、長い目で見れば、まずは原初的な自己感を育て、機能させることが不可欠なわけです。
なおかつ、そこにのみ閉じず、社会的な自己感もまた程よく活性化させること。
それでこそはじめて、動物としても人間としても、私たちは最大限のパフォーマンスを発揮できるのです。
私たちは【人間】です。
人との「間」にあってこそ、動物ではなく人として生きていけるのです。
